2022年12月1日木曜日

葛川明王院の絵図の三ノ滝

滋賀県大津市にある葛川明王院は、比叡山無動寺の奥院。貞観元年(859年)に相応和尚が明王谷の三ノ滝で修行をしていると不動明王が現れ、それに抱きついたところ桂の霊木だった。そこから木像を彫り、安置したのが始まりとのこと。

文保2年(1318年)に描かれた葛川明王院の絵図には、中央を流れる川の上部に朱色で「三瀧」と書かれた滝が描かれている。
「葛川明王院:葛川谷の歴史と環境(1960)」によると、相応和尚伝では一ノ滝で千手観音を感得し、二ノ滝で毘沙門天が顕れ、三ノ滝に籠ってはじめて不動明王を感得した。その三尊を桂の霊木で彫ったのが、いまの明王院の三尊であるとのこと。

また、霊木から三体の不動明王を彫り、無動寺、葛川明王院、伊崎寺に安置したという別の説話もあり、その奥に懸る十九の滝は不動明王眷属の十九童子にかたどられ、渓谷は神聖視されてきたとのこと。

葛川明王院を起点として、一ノ滝、二ノ滝、三ノ滝と不動明王に関わる説話がある明王谷、それに続き十九童子になぞらえた十九の滝がある奥ノ深谷を遡行してみた。百名谷として知られているルートなので、当然、新規性は何もない。

明王谷・奥ノ深谷の遡行

林道を5分くらい進むと明王谷と接するのでそこで入渓。百名谷や古い登山案内だと一ノ滝の記載があるが、遡行していても一ノ滝らしきものは見当たらない。堰堤が作られており、この辺りにあったのでしょうか。。
少し進むと大きな釜をもった二ノ滝。
ここは左岸の草付きを丁寧に巻くと、濡れずに抜けられる。

三ノ滝

両岸が狭まってゴルジュ様になってくる先に大きな滝。この三ノ滝で相応和尚が厳しい修行をしていると、滝つぼに不動明王が現れ、飛び込んで抱きついたところ桂の霊木であったとのこと。
三ノ滝を過ぎると奥ノ深谷となる。ほとんどの滝が巻けて、きれいな渓相と滝が続く。

帰りに葛川明王院に立ち寄ってみた。今も天台宗回峰行者の参籠の霊場であり、7月には行者が坂本から花折峠を越えて葛川に入り、5日間修行をするそうで、その間に相応和尚の三ノ滝の言い伝えにちなんだ太鼓廻しも行われるそうです。

・絵図に描かれたものを探すこと → こちら
・葛川明王院の絵図 → リスト( ①秘所滝 )
・高山寺絵図のもの探し → リスト( ①概要 ②瀧尾離尾 ③沓石 )

2022年11月30日水曜日

葛川明王院の絵図の秘所滝

葛川明王院の絵図は、葛川与伊香立庄相論絵図というそうで、葛川と伊香立庄との境界争いのために描かれた。文保元年(1317年)に作成された下絵みたいな絵図と文保2年(1318年)に作成された彩色のものがある。絵図の解釈については、「絵図のコスモロジー」という本に詳しい。

葛川明王院は滋賀県大津市にあり、比叡山にある延暦寺東塔無動寺の奥の院とのこと。その古い絵図。
絵図の右側には全体に木々が描かれ、中心には朱色で「秘所滝」と記されてある。この木々は、前年に描かれた下絵みたいな絵図にはなかったものだそうで、境界を主張する際にポッカリと何もない空間があると不都合だったのか、描き足されたとのこと。

この葛川明王院の絵図に描かれた「秘所滝」を見に行った。絵図のコスモロジーには、秘所滝があると思われるサカ谷を遡行して、確かに滝があることを確認したと記載されており、やっていることに新規性はない。

サカ谷の遡行

サカ谷の出合いに崩坂改修記念碑の石造物と案内板がある。絵図の「秘所滝」がある木々の右側に「崩坂西ノ横尾」、登った峠に「クツレ坂ノタウケ堂」と朱色でかかれており、「秘所滝」がある谷がサカ谷である根拠の一つになっている。
崩坂を登ってみると薄っすらとつづら折りの踏み跡があり、かつて道があったようにも見えた。峠まで登ってみたが、石造物などは何もなく、お堂跡なども見当たらなかった。

秘所滝

サカ谷には滝と言えるものは一つしかなかった。二段になっており、一段目は何でもない8mほどの滝だが、二段目の滝はトイ状で滝つぼの周囲を岩場で囲われており、少し神秘的な滝に感じた。
そのまま遡行を続けると、何もなく次第に水量も減り、稜線に至る。隣のヘク谷などは沢登りの対象となっているみたいだけど、サカ谷は面白味に欠けるためか、余り聞かない。「秘所滝」と思われる滝を見に行くだけでも、価値はあるような気はする。

・絵図に描かれたものを探すこと → こちら
・葛川明王院の絵図 → リスト( ②三ノ滝 )
・高山寺絵図のもの探し → リスト( ①概要 ②瀧尾離尾 ③沓石 )

2022年6月19日日曜日

七曲りの馬頭観音はどこに④【完】

最後にもう一度、戸隠山とか色々行きたいと思っていたけど、結局は3月末に七曲りの馬頭観世音の水鉢探しだけ行けた。(→七曲りの馬頭観音についての経緯はこちら(馬頭観音はどこに①)

善光寺から戸隠へ向かう途中にカーブが続く七曲りがあり、途中に馬頭観音の案内板はあるが、当の馬頭観世音の水鉢がどこにも見当たらずに探している。去年4回行って見当たらなかったけど、雨が降ると地形も変わるし、水鉢の一部が出てくる可能性もあるし。。
「戸隠古道を歩く(平成14年刊)」には水鉢の説明版と聖観音立像が2つならぶ写真がでており、どちらかが見つかれば、探している馬頭観世音の水鉢も近くにあることになる。聖観音立像2つは、「長野市の石造文化財(昭和58年刊)」「芋井の石造文化財(平成19年刊)」に掲載されているNo.10、No.11に該当する。

3月末に毎度同じように長野市水道路を辿って、七曲りの旧道に入る。ふと、倒木の脇を見ていたら、これまでは気が付かなかった聖観音立像が倒れていた。背中側しか見えないが、寛延と彫られており、これが上記写真の聖観音立像(No.10)と思われる。すぐ山側にも聖観音立像(No.11)があり、この横に水鉢の説明版があるはずだが、探しても見当たらない。
聖観音立像(No.11)の周辺、しかもすぐ側に馬頭観世音の水鉢があるか、埋まっていると思われるが、結局分からなかった。
逆に去年見つけたもうひとつの水鉢は、土砂に埋もれてしまっていて、完全に見えなくなっていた。真ん中の笹の手前を掘れば出てくるとは思うけど。
何となくの場所は分かったし、ひとまず馬頭観世音の水鉢探しは終わり。「七曲り」と検索すると、心霊スポット的なのしか出てこないけど、昭和のはじめに道路を作ったときに石造物の場所を移設したり、その後も埋まりかけた馬頭観世音を再度探して、道路沿いに看板も整備したりと、「七曲り」は旧道になってほとんど使われなくなっても地元の人が大事にしてきた道ってことがよく分かる場所。
山の中にあるものを気まぐれで探しても、それに意味があると思う次の人に引き継げないと意味がないし、とりあえず今は土砂に埋まっていてもここにありますよという情報が残っていればいいのかな。

戸隠表山三十三窟⑨(~29窟/33窟)【完】

戸隠山の三十三窟の内、東端にある知恵窟に行ってみた。(→戸隠表山三十三窟についてはこちら

参考にしている戸隠村の石造文化財の本には、知恵窟の場所が他の窟に比べて随分と東に離れているため、一応この窟を知恵窟とするという感じで記載されている。場所は、地形図の九頭龍山の東側尾根にある1504mピーク辺り。
年末頃に戸隠神社随神門から続くスキーのトレースを辿って、1258ピーク辺りから北上して尾根に取り付いた。尾根を進むと途中にひとつ岩陰があった。高さが1m、奥行きも1m、幅8mくらい。何か人工物がある訳でもないけど。
その他にも周囲を岩壁で囲まれたような地形もあり、少し基部が洞穴っぽくなっているところもあったが、特に何も人工物はなし。

知恵窟

何だかんだで、1504mピーク近くにある知恵窟に到着。本の写真と見比べて岩模様が同じだから、この岩陰と思われる。岩壁の基部に位置していて、足元は沢筋が広がっていて景色はよい。
今回の知恵窟で29窟を巡ったことになり、大隈窟、小隈窟の2窟(高所のため行けないらしい)、戸隠神社奥社(本窟)、九頭龍社(龍窟)の2窟を合わせると、一応、三十三窟を行ったことになる。

三十三窟まとめ

2018年9月~2020年12月で訪れることが可能と思われる29窟を巡った。

余り訪れる人がいないためか、多くの石祠が倒れており、戸隠村の石造文化財(2004)に掲載されいる石祠の内、金剛窟にあった野池らの2つの石祠が失われていた。野池らの石祠は傘石、身、台石の3つから構成されてバランスが悪く、動物などが倒すと特に身が窟の外側に転がってしまい、雪崩などで谷側に流されてしまうのかもしれない。帝釈天窟の本心行者の石碑は折れてしまっていた。

未報告のものとして、姫野師らの地蔵尊の石祠と台石、天光雷音の石祠と台石、五色窟近くの岩棚に台石のみが1つと、野池らか姫野師らか分からない台石が1つの計4ヶ所の無名窟があった。また、専門書に以前あったと記載されている不動窟と帝釈天窟の間の鎖場はまだ残っていた。

考察にはなるが、三層窟にある天照大御神と刻まれた石祠は、本来は三層窟の背後の岩壁中腹にある天岩屋に納めるものを、そこまで行けないので野池らが三層窟に納めたと思われる。天岩屋はその窟の形から、長野縣町村誌の仙人窟に該当すると思われる。(三層窟と天岩屋の考察 → こちら

長野縣町村誌の大隈窟と小隈窟については、三十三窟の中で一番標高が高いところにあるように描かれ、左が丸みをおびた三角形、右が丸形になっている。同じような形と位置関係の洞穴があるにはあり、標高もその他の窟と比べて一番高いが、中に石祠や人工物は何もない。(三角形の窟 → こちら

これまでの戸隠山の三十三窟の場所などを整理するとこんな感じ。
赤■が戸隠表山三十三窟、紫■は無名窟(石祠あり)、青■は岩陰(人工物なし)【完】

西岳の霊窟群探し⑩(西岳元穴)

長野市の鬼無里(きなさ)の西岳の山奥に洞穴があるらしい。

謎の洞穴というわけではなくて、鬼無里にある三嶋神社の発祥の地で、西岳の洞穴・元穴(もとあな)(地元では穴小屋(あなごや))と呼んでいるらしい。「むしくら」虫倉山系総合調査研究報告(1994)の信仰的講集団と石造物(P516)に記載されている。
位置の地図はあるが、林道西岳線を戸隠から一夜山方面に進んで、地形図の1238mピークの西側辺りらしく、ちょっとふわっとした情報のみ。

また、元穴は岩壁の根本に口を開けており、間口は4~5m、高さは4m、奥行きは2m、岩壁の頂上には向き合う2つの峰があり、その姿をヂイサン、バアサンと呼ぶとのこと。

4月頃に行けば、雪は解けて藪は雪の重みで倒れたままなので、元穴を確認しやすいかなと思って行ってみた。林道西岳線を品沢高原から入り、途中で西岳の岩壁に上がり、基部沿いに洞穴がないか、確認しながら一夜山方面へ進んでいった。
位置情報の通り、地形図の1238mピークの西側に洞穴と呼べるものがあった。間口も記載の通りな気がする。一つだけ引っかかるのは岩が重なりあって洞穴に見えるだけで、雨が降ったら洞穴内部も雨水の通り道になりそうなところ。この場所に案内板や何かの名残などはないけど、周囲にほかに洞穴と呼べるものはなさそうだった。
少し下りて林道からみると、稜線に向き合う2つの峰らしきものもあった。
場所はこの辺り。誰か来ることあるのかな。。