2026年5月2日土曜日

鵜川の石切りと大仏殿の敷石の話

ちょくちょくと通っている滋賀県高島市の鵜川の山。明治6年頃の鵜川村の絵図には、白鬚神社の左の山中に石切谷という谷が描かれている。

石切谷ということは、石を切り出して麓の村で石垣にしたり、または商売として湖畔から搬出したりしたということだと考えられるが、図書館で郷土資料を読むとかつては石切りが盛んだったようである。

この描かれた石切谷がどこの谷かは正確には分からないが、実際に白鬚神社の左側の谷をぶらぶらと歩いていると確かに石切りの痕跡(矢穴)を見かける。

鵜川の山中で見かける矢穴には2種類あり、靴くらいの大きいサイズの矢穴と、小さいものがある。ネットで検索すると、時代によって矢穴の大きさが異なるようで、大きい方が古い時代の石切りの痕跡とのこと。(下の図の薄茶■は小さい矢穴がある石、濃い茶■は大きい矢穴がある石)

この大きい矢穴は、特に白鬚神社の背後の山中でちらほら見かけるが、そもそもこの辺りは白鬚明神の境内山で村人が簡単に石切りができるのか、と疑問が湧く。さらに切り出した石が桁違いに大きく、村人が生活の一部として切り出すような次元ではないサイズの石も見かけたりする。例えば、この石・・・。

見かけた中では一番大きいもので、縦7m、横5m、高さ1.5mくらいある。山側にも切られた側の岩があり、矢穴の並びの形からこの岩から切り出して、20mくらいは動かしたのち、放置されたと思われる。(切られた側の岩とその上から見た位置関係)

矢穴の並びの比較。合致するので元は同一の岩だと思われる。その当時、鵜川村に人が何人いたのか分からないが、AIに聞くとこのサイズの石は重さが100トン以上と想定され、動かすのには数百人が必要とのこと。そうすると、単なる村人の生業の痕跡とは考えにくい。。

郷土資料から辻褄が合いそうな出来事を探して勝手に決めつけると、京都にあった大仏殿の敷石を切り出した話が合いそうだった。慶長17年に鵜川で大仏の御敷石を切り出した際、小松の船に積むはずが打下の船に積み、争いになったとのこと。

京都の大仏殿とはー
豊臣秀吉公によって方広寺の大仏殿の造営は着手されたが、大地震により大仏が損壊、完成を見ることなく没した。その後、意志を継いだ秀頼公により再興も慶長7年(1602)出火で焼失。再び着手し、慶長17年(1612)に竣工、慶長19年(1614)に大仏開眼供養の運びとなったとのこと。

大仏の敷石は2000年頃に発掘調査されており、もう埋め戻されているが、京都国立博物館の中庭に一つだけ展示されている。この展示されている敷石と、鵜川に残された大きな矢穴の岩とが同じような石だったらいいなと思い、見比べに行った。

似ていなかった。展示されている敷石は白いが、鵜川に残された岩は黄色みがかっている。

まあ、残されている石なのだから、当然敷石に使われていないのだが、ひょっとしたら展示されている敷石もこの辺りのどこかで切り出され、京都の大仏殿の敷石を生んだありがたい谷として、鵜川村の人が石切谷と呼んだと考えることもできなくもないかな。

◇参考資料

・滋賀県立公文書館:滋賀郡第16区、鵜川村、絵図

・ 中世の紛争と地域社会:岩田書院(2009)

京都市埋蔵文化財研究所調査報告(法住寺殿跡・六波羅政庁跡・方広寺跡)

リーフレット京都 No.151(2001年8月)

・滋賀県史採集文書:鵜川北小松訴論書類抄など

2026年3月8日日曜日

鵜川の山の石切り場探し

鵜川の山に近江高島駅側から打下城跡経由で入山し、琵琶湖が一望できる鉄塔まで行き、長法寺への看板に従って下ると、「打下山 六さん石切り場→」という看板がある。


何かあるのかなーと、その矢印に従って進むと、人為的な土橋のような道が続くだけで、何もなかった。

鵜川の山中には、打下城跡、長法寺跡などの遺構があり、もっと遡ると壬申の乱の三尾城(みおきの)もこの辺りにあって、その関連か確かに山中で土橋はたくさん見かけるが、当の石切り場はどこにあるのか。。

石切りの痕跡を探す

山中にこのような看板がいくつかあり、例えば「墓塚跡→」の場合は100mほど先にある。「至天狗岩」の場合は少し距離が離れているため、矢印ではなく至と表現していると思われる。なので矢印表記である「六さん石切り場→」は比較的近くにあると思われる。

そこで石切りの痕跡を探しに、看板先の谷沿いを中心に歩いてみた。その結果、特にその谷沿いに石切りの痕跡がたくさん残されていた。■赤:看板、■茶色:石切りの痕跡(切り出された石、または切り出した石)

切り出した石は多数あったが、それだとどこから切り出してきたのか分からないが、切り出された側の石もいくつかあった。周辺の他の沢沿いも歩いたが、これほど石切りの痕跡がある箇所は見当たらなかった。

L型の切り出された痕跡のある大岩

写真では分かりにくいが、平べったい高さ1m、幅3m、奥行き6mの大岩で、手前の下半分の右側3分の2だけ切り出されている。上半分には矢穴が縦に並んでおり、切り出す工程がよく分かる岩。周囲には切り出した手頃なサイズの岩もたくさん見ることができる。

矢穴が横に並ぶ岩

矢穴がずっと横に並んでいるが、そこで作業が止まっている。石切りが行われている場所で、残っている大岩も多数あるが、多くは丸みをおびた少し崩れやすそうな岩に見える。逆に切り出されている石は花崗岩のように堅そう。

石切り場で残されている岩。石切材として適さないのか、岩の知識がないので、その理由はよく分からない。

たまに切り出した石の集積地もある。不適で残されただけなのか、これも理由はよく分からない。

まとめ

六さん石切り場がここという看板は見当たらなかったが、おそらくこの一帯が石切り場ということでよいと思われる。大きな岩盤から順に切り出していたということではなく、山中に点在する大岩を順に切り出し、無くなったら別の場所に移動していたのかも。山中にある石切りの痕跡と大岩をまとめるとこんな感じ。(■茶色:石切りの痕跡、■青:大岩、点線:歩いた場所)

山中には大岩が多数点在しているが、石切りを行うと山の末端側から順に大岩がなくなっていくと思われる。にもかかわらず、大岩が色々と残されている理由は境界の問題なのか、石として不適なのか、運搬の問題なのか、信仰の対象ためなのか、などが考えられるがよく分からない。

鵜川村の明治初期の絵図には、白鬚神社寄りに石切谷という谷もあり、かつては一帯で石切りをしていたと思われる。しかし、白鬚神社周辺の谷を歩いても、六さん石切り場ほど石切りの痕跡は見当たらなかった。石切りで根こそぎ石を持ち出して、六さん石切り場もいずれはこの谷のようになったのかもしれないが、よく分からない。

鵜川・打下地区はかつては石工筋ばかりだったそうで、波止めの石垣、棚田の石垣は石屋のモニュメントだったとのこと。

鵜川のシシ垣をよく見ると、石切りの跡が残されている。少し丸みをおびた岩が多いので、ひょっとしたら商品価値が少し低いものを使っているのかも。

打下地区の波止めの石垣は高価そうな石に見える。山中の遺構も含めて、こういったものが長く大事に残されていくといいですね。

◇参考資料

湖西の漁撈習俗(1982)
滋賀県中世城郭分布調査 8(1991)
高島町歴史写真館 (高島民俗叢書 ; 第2輯)(1993)
滋賀県立公文書館所蔵資料検索システム(鵜川村、絵図)

2026年2月23日月曜日

鵜川山と打下山の境界歩き

琵琶湖の西側、リトル比良の北端の高島市と大津市の境目辺りの稜線を歩いていると、登山道の案内板ではない看板をやたらと見かける。「鵜川山 打下山」「鵜川生産森林組合No.〇」「〇〇 打下区」などと書かれており、境界の目印として立てられているようだ。

鵜川地区の山だから鵜川山、打下地区の山だから打下山という表記のようで、登山地図にある山の名前とは異なっており、その地区それぞれが、または共同して看板を立てている様子。その他、「下の鼻打」といった独特なネーミングの地名と思わる看板も多数見かける。

そこで、これらの看板の名称と分布、名称の歴史を調べてみた。

看板を辿る

まず、鵜川の山全体にある「鵜川生産森林組合No.〇」の境界の看板を順に追っていき、山中にあるものを地形図上にプロットした。次に「鵜川山 打下山」の看板を参考に囲われている範囲がどちらの山なのかを決める。最後に、ウェブ上で見られる国有林の境界と林野庁の森林計画図を参考に補足すると、こんな感じになった。青色:打下山、赤色:鵜川山、緑色:国有林となる。

「〇〇 打下区」と書かれた看板は、11個見つけることができて、名称はこんな感じ。境界を中心に歩いているということもあるが、この看板はすべて境界上で見かけ、境界の目印となる場所の呼び名だと考えられる。

「馬の足」「馬の足形」の看板のところには「〇〇 打下区」の看板はなかったが、どう考えても何か謂れがありそうなので、一緒に記載しておく。

「〇〇 打下区」の看板

近江高島駅側から冒頭の「下の鼻打」を経由して見張山に登ると、その先に「ろくわ石」がある。背丈ほどの丸い石で「ろくわ石」「ろくは石」と看板には書かれている。

さらに稜線を鳥越峰方向へ進むと、「上の鼻打」がある。登山地図ではここに分岐はないが、地形図では尾根が南北に走っており、北に登山道沿いに進むと鳥越峰、南に藪道を進むと看板に「至天狗岩」とあるように「天狗岩」へ行ける。

「至天狗岩」の看板に従い、「上の鼻打」から南に少し進むと628mピークとなる。ここは崖で展望がよく、鵜川の161号線からも見える岩場となっているが、これが「天狗岩」ではなく、その左横の小ピークが「天狗岩」の看板がある地点となる。

「天狗岩」の看板は木に打ち付けられており、周囲に大岩がいくつかある。どれを天狗岩と呼ぶのかは分からないが、この境界の地点が天狗岩ということだと思われる。

ここから、谷を下って、登り返すと「岩かべ」という地点があり、その先に「小天狗岩」がある。ここも岩があるというだけで、特徴的な何かがある訳でもなく、少し入り組んだ境界のためこまめに名称が付けられていると思われる。

絵図で地名を見比べる

これらの境界の地名について、古い絵図等を調べれば何か分かるかなと思い、図書館で調べてみた。特に参考となったのは下記の3つ。

・鵜川山裁許絵図

志賀町史によると、鵜川村・打下村が北小松村と争った際の江戸表の評定所の裁断時に示された裁許絵図とのこと(享保元年、1716年)。今の河川名の鵜川を境界に上半分の薄い緑色の山々が鵜川山村、下半分の濃い緑色が北小松村山となっている。この絵図の稜線上には、「下の鼻打」に当たると思われる「下のはな口」などの名称が記載されている。

・千石組絵図

高島町史によると、承応4年、1655年に描かれたもので、千石組とは石高から生まれた郷名とのこと。左上に突き出ている山々が打下の山と思われ、「六把石」「さむ風」などの地名が多数記載されている。(湖西の古絵図(1981年)より)

・鴻溝録

「こうこうろく」と読み 文政7年、1824年に大溝藩によって著された地誌とのこと。打下村の項に打下山の字が記載されており、「上ノ花打」「六把石」などが記載されている。千石組絵図を参考にしているようで、字はほぼ同じ。

まとめ

ーということで、上記の3資料を参考に山中にある「〇〇 打下区」の看板と比較すると下記となった。同じ名称と思われる所は肌色、または同じと推測できる名称は水色にした。山中にある看板は少なくとも1655年頃からの地名(字)を現在に伝える看板ということになる。

天狗岩、天狗山に関しては、上記の2絵図上と現地の看板の場所が大分違うので、別物とした。岩阿沙利山の鹿ヶ瀬にもさらに別の天狗岩はあり、ありふれた名称と思われる。また、同じ場所でも地区によって呼び方が変わることもあるようだ。

鵜川の棚田から稜線を見ても、鵜川山裁許絵図に描かれている地名(字)、岩や尾根を同定するのは極めて難しい。

これらの看板は何てことはないものに思えるが、全く意味が分からない古絵図の「下のはな口」という地名を、現地でここですと示してくれている看板であり、とても意義のある看板と個人的には思う。

2025年9月15日月曜日

鵜川の棚田の分水

琵琶湖の西側の比良山地では中世より荘園間、村々の間で境界争いがあったようで、絵図がたくさん残されている。その中の「鵜川⼭境相論裁許絵図写(享保元年(1716))」が琵琶湖博物館の企画で展示されていたので見てきた。

前々から絵図に不思議な場所が描かれていて気になっていた。現在の鵜川林道が椿谷を横切る辺りの沢の分岐。ひとつの流れがここで分岐して、2つの流れになっている。地形図で見ると、分かれた沢はコルを越えて、絵図の通りだと下流の沢とつながることになる。

絵図ではこの沢(川)の名前が「たかの尾井水川」となっており、おそらく下流の田畑のために分水してるのだろうと思われ、鵜川を下流から遡行してみた。

鵜川は滝山へと突き上げる左股はよく沢登りで登られているみたいだが、右股(本流)の方は面白くないのか、記録を見かけない。絵図には左股との分岐手前に岩、分岐後すぐに滝を描いており、絵図の正確性の確認のため、それも探してみた。

分岐手前の大岩。岩、岩場はたくさんあり、絵図のような山形の岩は分からなかった。

分岐後の滝。確かに滝はあったが、高さ2m弱で小さい。絵図のと似ていると言えば、似ている。両岸が狭まっており、ここは沢に浸かりながら、滝を越えるしかない。

堰堤を越えながら、だらだらと本流を遡行し、途中の椿谷との分岐を右に入る。少し登ると、岩を並べて、ベニヤ板で分水量を調整している箇所があった。今もここから分水して、上手く重力を利用してコルを越えて下流側の水量を増やしていると思われる。

鵜川林道は下にパイプで潜らせて、下流の沢に合流する。

ということで、絵図に描かれた沢の分岐は、下流の田畑への分水で、少なくとも1716年からはずっと引き継がれている流れということになる。

鵜川の棚田は、保存(存続)のためか、棚田オーナー会員制にして色々と募っている。棚田がなくなれば、上流の分水も必要なくなってしまい、同様に絵図を不思議に思った人が見に行っても、よく分からなかったで終わってしまう。

2024年11月5日火曜日

京都の道標探し(山科区)

山科区で4日間ほど道標探しをしてみた。

ーが、山科区では「山科の歴史探訪 5 (道標に見る山科):1994」で道標をきちんと調査されており、旧道を歩き回って偶然こんなところにもある~、なんてことはほとんどなかった。

なので、暇つぶしに調べた道標の話。

追分の「柳緑花紅」の道標

旧東海道を日本橋から京都の三条大橋へ向かって歩くと、大津市の追分で京都方面と伏見方面に分かれる。そこに

「 みきは京みち 」「 ひたりはふしみみち 」

「 柳緑花紅 」「 昭和廿九年三月再建 」

と刻まれた道標がある。

江戸時代から有名な道標だったそうで、京都市歴史資料館のページによると都名所図会など多くの書物に柳緑花紅の道標があることが書かれているとのこと。

東海道分間延絵図を切り抜くとこんな感じで、当時の人はこの道標を見て、京に向かったり、伏見へ行ったり。

そんな貴重な道標だけど、昭和二十九年の再建と刻まれているように、これはレプリカ。では、本物はどこにー?ということになる。

実は近くの摂取院に折れた痕跡のある全く同じ道標があり、そして滋賀県立安土城考古博物館にも同じ道標があって、何だかどちらがオリジナルかはっきりしない様子。下は摂取院のもの。

「京の道標(昭和41年刊)」に、著者が追分の「柳緑花紅」の道標を見に行ったところ(時期は不明)、無くなっていたという話が出てくる。

市役所に捜索を依頼すると、滋賀県立産業文化館にあることが分かったが、県庁に相談しても元の場所には戻してくれなかったとのこと。

滋賀県立産業文化館は、昭和23年11月に開館して、文化財を収集し始めた。滋賀県立産業文化館報告書(1961)には、収蔵品のところに「花崗岩道しるべ 柳緑花紅」、産地:大津市藤尾、習得:昭和25年9月とあるので、開館当初に文化財として価値があると判断して、道標を持っていったと思われる。

なので、現在、安土城考古博物館にある「柳緑花紅」の道標がオリジナルの道標ということになる。では、摂取院の折れた痕跡のある「柳緑花紅」は?

「洛中洛外(1985年刊)」という佛教大学の定期刊行物である部報をまとめた本がある。

その中、昭和34年5月発行の話題で、著者が道標を見に行ったところ(時期は不明)、真新しい「柳緑花紅」が建てられており、その脇にトラックがぶつかり、真っ二つになった「柳緑花紅」が横たわっていた。

雨宿りのために寄った近くの摂取院で、折れた道標の供養をすすめたと書かれている。

ということはー、

・昭和25年9月:初代「柳緑花紅」は滋賀県立産業文化館へ移設(現在は滋賀県立安土城考古博物館)

・昭和25年9月以降:「京の道標」の著者が訪問。「柳緑花紅」はなく、その後県庁に戻すように依頼するも叶わず。

その後、誰かが「柳緑花紅」を再建するもトラックがぶつかり、2代目は真っ二つに。

・昭和29年3月:3代目「柳緑花紅」を再建(現在建っているもの)

・「洛中洛外」の著者が訪問し、摂取院に2代目「柳緑花紅」の供養を依頼。

・2代目「柳緑花紅」は補修されて摂取院に移設。

現在に至る

ということですね。ちなみに3代目もちょこちょこ車にぶつかられているようです。補修しながら、いつまでも残してほしいです。

◇参考図書◇

洛中洛外 須賀隆賢 著 仏教大学通信教育部, 1985.9

山科の歴史探訪 5 (道標に見る山科) 山科の歴史を知る会, 1994.4

京の道標 塩見青嵐 著 白川書院, 1966