ちょくちょくと通っている滋賀県高島市の鵜川の山。明治6年頃の鵜川村の絵図には、白鬚神社の左の山中に石切谷という谷が描かれている。
石切谷ということは、石を切り出して麓の村で石垣にしたり、または商売として湖畔から搬出したりしたということだと考えられるが、図書館で郷土資料を読むとかつては石切りが盛んだったようである。
この描かれた石切谷がどこの谷かは正確には分からないが、実際に白鬚神社の左側の谷をぶらぶらと歩いていると確かに石切りの痕跡(矢穴)を見かける。
鵜川の山中で見かける矢穴には2種類あり、靴くらいの大きいサイズの矢穴と、小さいものがある。ネットで検索すると、時代によって矢穴の大きさが異なるようで、大きい方が古い時代の石切りの痕跡とのこと。(下の図の薄茶■は小さい矢穴がある石、濃い茶■は大きい矢穴がある石)
この大きい矢穴は、特に白鬚神社の背後の山中でちらほら見かけるが、そもそもこの辺りは白鬚明神の境内山で村人が簡単に石切りができるのか、と疑問が湧く。さらに切り出した石が桁違いに大きく、村人が生活の一部として切り出すような次元ではないサイズの石も見かけたりする。例えば、この石・・・。
見かけた中では一番大きいもので、縦7m、横5m、高さ1.5mくらいある。山側にも切られた側の岩があり、矢穴の並びの形からこの岩から切り出して、20mくらいは動かしたのち、放置されたと思われる。(切られた側の岩とその上から見た位置関係)
矢穴の並びの比較。合致するので元は同一の岩だと思われる。その当時、鵜川村に人が何人いたのか分からないが、AIに聞くとこのサイズの石は重さが100トン以上と想定され、動かすのには数百人が必要とのこと。そうすると、単なる村人の生業の痕跡とは考えにくい。。
郷土資料から辻褄が合いそうな出来事を探して勝手に決めつけると、京都にあった大仏殿の敷石を切り出した話が合いそうだった。慶長17年に鵜川で大仏の御敷石を切り出した際、小松の船に積むはずが打下の船に積み、争いになったとのこと。
豊臣秀吉公によって方広寺の大仏殿の造営は着手されたが、大地震により大仏が損壊、完成を見ることなく没した。その後、意志を継いだ秀頼公により再興も慶長7年(1602)出火で焼失。再び着手し、慶長17年(1612)に竣工、慶長19年(1614)に大仏開眼供養の運びとなったとのこと。
大仏の敷石は2000年頃に発掘調査されており、もう埋め戻されているが、京都国立博物館の中庭に一つだけ展示されている。この展示されている敷石と、鵜川に残された大きな矢穴の岩とが同じような石だったらいいなと思い、見比べに行った。
似ていなかった。展示されている敷石は白いが、鵜川に残された岩は黄色みがかっている。
まあ、残されている石なのだから、当然敷石に使われていないのだが、ひょっとしたら展示されている敷石もこの辺りのどこかで切り出され、京都の大仏殿の敷石を生んだありがたい谷として、鵜川村の人が石切谷と呼んだと考えることもできなくもないかな。
◇参考資料
・滋賀県立公文書館:滋賀郡第16区、鵜川村、絵図
・ 中世の紛争と地域社会:岩田書院(2009)
・京都市埋蔵文化財研究所調査報告(法住寺殿跡・六波羅政庁跡・方広寺跡)
・滋賀県史採集文書:鵜川北小松訴論書類抄など








































