琵琶湖の西側、高島市と大津市の境目辺りにあるリトル比良の北端の稜線を歩いていると、登山道の案内板ではない看板をやたらと見かける。
登っていて、急に「下の鼻打」と出てきても何のことか分からないが、「鵜川山 打下山」「鵜川生産森林組合No.〇」「〇〇 打下区」などと書かれているものが多数あり、境界の目印として立てられているようだ。
鵜川地区の山だから鵜川山、打下地区の山だから打下山という表記のようで、登山地図にある山の名前とは異なっており、その地区それぞれが、または共同して看板を立てている様子。
そこで、これらの看板の名称と分布、名称の歴史を調べてみた。
看板を辿る
まず、鵜川の山全体にある「鵜川生産森林組合No.〇」の境界の看板を順に追っていき、山中にあるものを地形図上にプロットする。次に「鵜川山 打下山」を参考に囲われている範囲がどちらの山なのかを決める。最後に、ウェブ上で見られる国有林の境界と林野庁の森林計画図を参考に補足すると、こんな感じになった。
「〇〇 打下区」と書かれた看板は、11個見つけることができて、名称はこんな感じ。境界を中心に歩いているということもあるが、この看板はすべて境界上で見かけ、境界の目印となる場所の呼び名だと考えられる。
「馬の足」「馬の足形」のところには「〇〇 打下区」の看板はなかったが、どう考えても何か謂れがありそうなので、一緒に記載しておく。
「〇〇 打下区」の看板
近江高島駅側から冒頭の「下の鼻打」を経由して見張山に登ると、その先に「ろくわ石」がある。背丈ほどの丸い石で「ろくわ石」「ろくは石」と看板には書かれている。
さらに稜線を鳥越峰方向へ進むと、「上の鼻打」がある。登山地図ではここに分岐はないが、地形図では尾根が南北に走っており、北に登山道沿いに進むと鳥越峰、南に藪道を進むと看板に「至天狗岩」とあるように「天狗岩」へ行ける。
「至天狗岩」の看板に従い、「上の鼻打」から南に少し進むと628mピークとなる。ここは崖で展望がよく、鵜川の161号線からも見える岩場となっているが、これが「天狗岩」ではなく、その左横の小ピークが「天狗岩」の看板がある地点となる。
「天狗岩」の看板は木に打ち付けられており、周囲に大岩がいくつかある。どれを天狗岩と呼ぶのかは分からないが、この境界の地点が天狗岩ということだと思われる。
ここから、谷を下って、登り返すと「岩かべ」という地点があり、その先に「小天狗岩」がある。ここも岩があるというだけで、特徴的な何かがある訳でもなく、少し入り組んだ境界のためこまめに名称が付けられていると思われる。
絵図で地名を見比べる
これらの境界の地名について、古い絵図等を調べれば何か分かるかなと思い、図書館で調べてみた。特に参考となったのは下記の3つ。
鵜川山裁許絵図
志賀町史によると、鵜川村・打下村が北小松村と争った際の江戸表の評定所の裁断時に示された裁許絵図とのこと(享保元年、1716年)。今の河川名の鵜川を境界に上半分の薄い緑色の山々が鵜川山村、下半分の濃い緑色が北小松村山となっている。この絵図の稜線上には、「下の鼻打」に当たると思われる「下のはな口」などの名称が記載されている。
千石組絵図
高島町史によると、承応4年、1655年に描かれたもので、千石組とは石高から生まれた郷名とのこと。左上に突き出ている山々が打下の山と思われ、「六把石」「さむ風」などの地名が多数記載されている。(湖西の古絵図(1981年)より)
鴻溝録
「こうこうろく」と読み 文政7年、1824年に大溝藩によって著された地誌とのこと。打下村の項に打下山の字が記載されており、「上ノ花打」「六把石」などが記載されている。千石組絵図を参考にしているようで、字はほぼ同じ。
まとめ
ーということで、上記の3資料を参考に山中にある「〇〇 打下区」の看板と比較すると下記となった。同じ名称、または同じと推測できる名称が多数あり、山中にある看板は少なくとも1655年頃からの名称を現在に伝える看板ということになる。
天狗岩、天狗山に関しては、上記の2絵図上と現地の看板の場所が大分違うので、別物とした。岩阿沙利山の鹿ヶ瀬にもさらに別の天狗岩はあり、ありふれた名称と思われる。また、同じ場所でも地区によって呼び方が変わることもあるようだ。
鵜川の棚田から見える稜線と、鵜川山裁許絵図の描かれている稜線とを見比べても、絵図中の岩や尾根名を同定するのは極めて難しい。
これらの看板は何てことはないものに思えるが、全く意味が分からない古絵図の「下の鼻打」という地名が、現地でここですと示してくれていることは、とても意義があることと思う。



































