窟を辿る道
戸隠山には三十三の岩陰、洞穴があり、窟(くつ)と呼ばれている。
窟はちょっとした洞穴のような小さなものから、大きな岩陰のようなところなど様々で、戸隠寺の縁起には学問行者が九つの頭と一つの尾を持った鬼を岩屋に封じた話があり、岩屋(洞穴、岩陰、窟)が信仰の場となっている。
窟はちょっとした洞穴のような小さなものから、大きな岩陰のようなところなど様々で、戸隠寺の縁起には学問行者が九つの頭と一つの尾を持った鬼を岩屋に封じた話があり、岩屋(洞穴、岩陰、窟)が信仰の場となっている。
三十三の窟は戸隠山の険しい岩場などにあるため、時代の変化と共に荒廃し、現在は訪れる人も少ないため、三十三窟を辿る道も藪に埋もれてしまっている。
戸隠神社奥社、九頭龍社も窟
戸隠神社奥社は本窟、九頭龍社は龍窟で、どちらも戸隠表山三十三窟のひとつ。社殿は窟を覆うように建てられており、窟自体がとても大切な場所であるが、秘所のために窟の様子は見られない。
その他の31窟は、戸隠山の山中に分散しており、奥社から戸隠山へ向かう登山道沿いにある五十間長屋、百間長屋、西窟はそれぞれ三十三窟の一つとなっていて、石の祠なども置かれて窟の様子が分かる。
これらの窟では70年代に発掘調査もされ、特に西窟では平安時代の遺物なども出てきている。発掘された遺物は戸隠神社中社の青龍殿で拝観できる。
三十三窟に関する資料
①阿娑縛抄(1275年):国立国会図書館蔵 大日本仏教全書190頁、三十三窟とは記載なし。
阿娑縛抄(1275年):国立公文書館蔵 阿娑縛抄巻第96,28頁
②戸隠山顕光寺流記并序(1458年):三十三窟の名称あり。
③善光寺道名所図会(1849):第四に三十三窟の名称、図あり。
④信州デジタルコモンズ:戸隠山惣略図がいくつかでてきて、三十三窟が描かれている。
⑤長野縣町村誌(明治初期):戸隠村の項に三十三窟の名称、図があり。
⑥戸隠―総合学術調査報告 (1971年):西窟、東窟などの一部の窟を発掘調査。
⑦戸隠村の石造文化財(2004年):31窟を比定して、名称と位置について一定の見解を示す。
阿娑縛抄(1275年):国立公文書館蔵 阿娑縛抄巻第96,28頁
②戸隠山顕光寺流記并序(1458年):三十三窟の名称あり。
③善光寺道名所図会(1849):第四に三十三窟の名称、図あり。
④信州デジタルコモンズ:戸隠山惣略図がいくつかでてきて、三十三窟が描かれている。
⑤長野縣町村誌(明治初期):戸隠村の項に三十三窟の名称、図があり。
⑥戸隠―総合学術調査報告 (1971年):西窟、東窟などの一部の窟を発掘調査。
⑦戸隠村の石造文化財(2004年):31窟を比定して、名称と位置について一定の見解を示す。
阿娑縛抄、戸隠山顕光寺流記はデジタル資料で見られるが、解説なしの古文書だから内容がよく分からない。昔から山中には数多くの岩屋があったというのが分かる程度。善光寺道名所図会、戸隠山惣略図には三十三窟の絵図があるが、山の様子を聞いた絵師が描いた図という印象を受ける。見て描いたらこんな感じにはならない気がする。
阿娑縛抄(1275年)
鎌倉時代の仏教書。大石殿、不動石屋、馬頭石屋、毘沙門石屋、金石殿、中石殿などの名称が出てくる。西石殿というのも出てきており、西窟を指すのかもしれないがこれだけでは分からない。
戸隠山顕光寺流記并序(1458年)
戸隠山顕光寺の縁起などに関する古文書で、縁起としては阿娑縛抄についで整ったとのこと。三十三箇所霊窟や戸隠山四至堺などが記されている。これは1458年の写本のようで、内容はもっと古くに書かれたとのこと。三十三の霊窟の名称は下記の表となる
- 三拾参箇所霊窟事
- 第一 本窟(宝窟) 聖観音 → 今の戸隠神社奥社
- 第二 東窟 薬師如来 → 弘法の護摩所。仏具など出土。窟内は金色。
- 第三 中窟 地蔵菩薩
- 第四 西窟 金剛藏王 → 戸隠山登山道沿い。平安時代の花瓶など出土。
- 第五 大窟殿 釈迦如来
- 第六 獅子窟 文殊師利菩薩
- 第七 象窟 普賢菩薩
- 第八 虚空藏菩薩窟
- 第九 愛染王窟
- 第十 不動窟 → 鏡池から道があり。不動明王摩崖仏のところ。
- 第十一 降三世窟
- 第十二 軍茶利窟
- 第十三 大威徳窟
- 第十四 金剛夜叉窟
- 第十五 毗沙門窟 → 戸隠山への登山道沿いにある五十間長屋。
- 第十六 帝釈窟
- 第十七 弁才天窟
- 第十八 経蔵窟
- 第十九 妙法窟
- 第廿 般若窟
- 第廿一 智恵窟
- 第廿二 歓喜窟 → 鎌倉時代らしき青銅鏡が出土したらしい
- 第廿三 仙人窟
- 第廿四 龍窟 → 今の九頭龍社
- 第廿五 鷲窟
- 第廿六 金窟
- 第廿七 五色窟
- 第廿八 三層窟
- 第廿九 日中窟
- 第三十 大_窟(_は俣の左がテ編)
- 第丗一 小_窟(_は俣の左がテ編)
- 第卅二 長窟 → 戸隠山への登山道沿いにある百間長屋。
- 第卅三 大多和窟
信州戸隠山惣略絵図
信州デジタルコモンズで、「戸隠」と検索すると何種類も古い絵図が見られる。そのひとつである信州戸隠山惣略絵図を見ると、右下の部分は一の鳥居や大久保の茶屋で、左上の部分が戸隠神社奥社(明治より前は奥院)と三十三窟がある戸隠山となる。
奥院裏の山中に西窟、獅子ノ窟、五色窟、中ノ窟、小隈窟、日中窟、雷窟、ヤクシ窟などの三十三窟が描かれている。窟の名称は戸隠山顕光寺流記や長野縣町村誌と少し異なる。
長野縣町村誌
内務省の指示で長野県が作成した資料。地名・山・滝・名所などの詳細な文書と村絵図(明治11年~15・16年頃編纂)がセットとなっている。三十三窟の名称は戸隠山顕光寺流記とほぼ同じ。窟の形にそれぞれ特徴があり、実際に窟の形を見聞きして描いている印象を受ける。
戸隠村の石造文化財(2004年)
戸隠神社奥社(本窟)、九頭龍社(龍窟)以外の31窟を実地調査して、比定している。窟や納められた石祠の写真が掲載されている。2019年に戸隠道が文化庁の歴史の道百選に選定され、その資料にも戸隠村の石造文化財の本に出ている戸隠表山三十三窟の分布図が掲載されている(上記図)。善光寺から戸隠神社までの古道だけでなく、山中の信仰の遺構も含めての戸隠道ということなのでしょう。
三十三窟は、特に大事な本窟、龍窟、西窟、東窟などの場所は変わらないと思われるが、その他の窟は時代によって名称や場所が違ってたりもするので、実は山中に三十三窟以上ある。
それぞれで発掘したりすれば、ここはかつて窟だったのだろう、ってなるが、現状では石祠などが今も残っている窟を中心に、昔の絵図との位置関係などを見ながら、学術書などでは位置を推定している感じ。ちょっとずつ窟を巡ってみたい。
それぞれで発掘したりすれば、ここはかつて窟だったのだろう、ってなるが、現状では石祠などが今も残っている窟を中心に、昔の絵図との位置関係などを見ながら、学術書などでは位置を推定している感じ。ちょっとずつ窟を巡ってみたい。
戸隠表山三十三窟を順に巡った記録 → 戸隠表山三十三窟めぐり①