2018年4月6日金曜日

穂高岳のピークの名称

穂高連峰のピークの名称をいつ誰が決めたのか?明神岳とか気になったから、ちょっと調べてみた。結果は、・・・

1922年の慶応大学山岳部らの記録が載った山岳誌 登高行第四年、第五年で穂高のピークの名称を決め、それが広まったとのこと。
分かる範囲での経緯だと、―――

・信府統記(1724年)
 1724年の信府統記という書物に穂高大明神が穂高岳に鎮座と書いてあるそうで、穂高岳、明神という言葉が出てくる。

・善光寺道名所図会
江戸時代の善光寺道名所図会には、槍ヶ岳、焼岳、蝶ヶ岳はあるが、”穂高嶽”は明神岳とそれに連なる前穂高岳をまとめてそのように記載。明治初期の安曇村(図)には、槍ヶ嶽、焼嶽、霞澤嶽とあるが、”保高嶽”はやはり漠然と記載。

この時代だと正確な測量前なので穂高の全体図が分からず、西穂、奥穂、北穂、前穂、涸沢岳、明神岳を漠然と穂高岳としていた様。

参謀本部が前穂高岳を基準点名:穂高岳に

1893年8月1日に測量官の館潔彦が、上條嘉門次とひょうたん池、明神岳東稜のコルを経て下又白谷上部から前穂高岳に登頂。ここを一等三角点にし、基準点名:穂高岳とした。なぜ、より100m高い奥穂高岳を選点しなかったのかはよく分からないが、周辺の情報が少なく、前穂高岳でも条件を満たせたというのもあるよう。




測量の基準点名は今のピーク名と違う

1906年にその周辺の山に三等三角点を設置。先に穂高岳の名を使ったので、涸沢岳(基準点名:奥穂高)、南岳(基準点名:北穂高)、西穂高岳(基準点名:前穂高)と便宜上付けたのだろうが、今の名称と場所が大分違っている。また、明神岳2263峰には、基準点名:池尻(由来は池尻沢から?)、中又白、下又白が挟む尾根に基準点名:又四郎とした。又四郎とあるが、前穂高岳のことを上條嘉門次など案内人は又四郎岳と呼んでいたようだ。


陸地測量部の五万分の一のアルプス地形図(1930年)は今と同じ名称に

鵜殿正雄の「穂高岳槍ヶ岳縦走記」では前穂高岳のことを南穂高岳と命名したり、小島烏水の「谷より峰へ峰より谷へ」では、前穂高岳のことを穂高岳、明神岳のことを御幣岳と呼んだりしている。1921年の上高地周辺の地図(南安曇郡誌 別篇Ⅰ巻末)では、西穂高岳の名前は前穂高岳となっていたりと、三等三角点の名称が反映されていた。

結局、測量部員、西洋人、登山家、案内人が各々の呼び名で山を呼んで統一されていなかったが、1922年の登高行第四年と第五年に、「陸測五万分の一の焼岳図幅に穂高岳(3090.2m)とあるのを前穂高岳とし、地図上の穂高岳の山稜との交点を奥穂高岳とし、…北穂高岳、…前穂高岳、…南岳としました。」と記載されて、徐々にその名称に収束されて、1930年陸地測量部の五万分の一のアルプス地形図では、穂高連峰の中心に穂高岳と記され、現在と同じ各峰の名称が記載されたとのこと。明神岳の名前の由来はよく分からなかった、穂高大明神から付けたと考えるのが自然か。

見ていた本で、穂高岳に一番最初に登ったのは槍ヶ岳開山の播隆かもしれないというのがあった。

根拠に直筆の「鑓ヶ岳絵図」があり、穂高嶽 仏安置と書かれているそうだ。槍ヶ岳登頂の10日後に登っているため、ひょうたん池辺から前穂高岳へ登った可能性があり、背負って運ぶ名号石(みょうごいし)という石仏?が今でもどこかに置かれているかもしれないとのこと。笠ヶ岳では8体の石仏を置き、これまでに5体見つかっているようで、今度探してみよう。

参考:
善光寺道名所図会:1849年刊行(61頁)
長野県立歴史館 安曇村(図)
南安曇郡誌 別篇Ⅰ 南安曇郡誌改訂編纂会/編
日本登山史年表・目で見る日本登山史 山と溪谷社
鵜殿正雄:穂高岳槍ヶ岳縦走記
小島烏水:谷より峰へ峰より谷へ