2020年11月16日月曜日

戸隠表山三十三窟⑧(26~28窟/33窟)

日時:2020年11月8日(日)
ルート:戸隠神社奥社-戸隠山登山道-五十間長屋-三層窟-仙人窟-五色窟-奥社

秋も深まり、草木も枯れて藪もうすくなってきたので、戸隠山の窟めぐりに出かけた。

戸隠表山三十三窟とは
 窟とは岩陰、岩屋、洞穴のことで戸隠山の山中には、戸隠神社奥社である第一番目の本窟から三十三番目の大多和窟まである。
 戸隠神社奥社の本窟と、九頭龍社の龍窟は建物に覆われて窟は見れないが、残りの31の窟は山の中で見られる。大隈窟、小隈窟は高所で行けず、実際は29窟が行ける窟となる。
 (→戸隠表山三十三窟を詳しく)


まずは戸隠神社奥社の手前から戸隠山の登山道を五十間長屋まで登る。Go toのおかげで奥社は紅葉の時期も相まって、観光客たくさん。駐車場から1時間くらいで到着。



ここで登山道から外れて、谷筋へ。登山者から道間違えてませんかと声をかけられ、大丈夫です―と答えて、ササっと藪に消える。象窟を経て、三層窟へ。

三層窟

一段目はちょっとした洞穴が2つ。二段目に崩れているが石祠が3基。中二段に「天照大御神」と彫られた石祠が1基。三段目は登るにはちょっと怖くて行けなかった。ただ、何もなさそうな感じ。
(→三層窟についての考察はこちらのページ)


三層窟を後に藪を漕いで標高を上げて進むと岩壁にでる。


仙人窟

何かある訳でもなく、水がしたたり、じめじめした岩陰。景色はとても◎。


仙人窟を後に岩壁沿いを進むと、五色窟にでる。

五色窟

岩棚があり、石祠の台石のみが残っていた。上から見ると正方形で彫り跡がない表面で何となく昭和17年に置かれた姫野師らの石祠っぽい。

すぐ近くに岩壁基部がえぐれた部分があり、石祠が1基。これも姫野師らの石祠で「文珠尊」と彫られており、"山の形が獅子で、窟はその口に位す"ので獅子窟と本には書かれている。



この後、さらに岩壁沿いに進むが大スラブ帯でちょっといやな感じで、中窟、東窟方面に行くのはやめて、また藪を進む。


無名窟

途中にちょっとした岩場があり、石祠が置かれていた。これも姫野師らの石祠で「天光雷音」と彫られているように見えた。本には、天鼓雷音如来は雷窟に置き、"窟内は円満にして光明をはなつ"とあるが、陽当たり良いためか、岩場全体がもとから明るい感じだった。



その岩場のすぐ先にも小さい洞穴が2つあったが、中には何もなかった。

戸隠村の石造文化財(2004年)による戸隠表山三十三窟に従うと、これで窟は秘所のため見られない戸隠神社奥社と九頭龍社の2窟を除くと、28/31窟をめぐったことになった。

大隈窟、小隈窟は高所で行けいないとされているので、あとは知恵窟のみ。



2020年11月14日土曜日

三層窟と天岩屋の考察①

戸隠表山三十三窟の中に三層窟というのがある。

三層窟というからには、窟が三層になっている窟と思われるが、窟の名称は時代とともに変化したりして、令和の時代にどの窟がどれかというのを同定するのは難しい。

三十三窟に一定の見解を示している戸隠村の石造文化財(2004年)では、やはり窟が層状に三段になっている窟を三層窟としている。写真でこんな感じ。


この三層の窟内には、中段に散乱した石祠が3基、右側の岩壁の中ほどに天照大御神と刻まれた石祠が1基ある。

戸隠―総合学術調査報告 (1971年)では、この他に中央の高い岩棚に虚空蔵尊の石祠があるので虚空蔵窟として掲載されているが、この石祠は今は失われている。


他の窟に比べたら石祠はたくさん残されている窟ではあるが、やはりどんな窟で何なのかーというのは決め手はないが、先日、長野市の公文書館で見てた資料とちょっとつじつまが合いそうな記載があった。

江戸末期から明治初期にかけて、荒廃していた戸隠表山三十三窟の再興に取り組んだ野池久左衛門の一派の明治8年の資料で、十四窟分の名称、祭神などが書かれている。

その中に――、

 第三 三層窟 祭神 高皇産霊神、天之御中主神、神皇産霊神
 第四 天岩屋 祭神 天照大御神
 但しこの岩屋は行くのは難しいから、三層窟から拝む的な・・・

とある。

ちょっと古文書の読解には知識不足で意味があっているのか、よく分からないが。。でも三層窟は祭神が三で、石祠も3基あり、右の岩棚に天照大御神の石祠があるので、天岩屋には行けないのでこの三層窟から拝み、石祠もここに置いたということで合ってそうな。。

また天照大御神の石祠の延長上の岩場の中腹には岩穴らしきものがある。 



戸隠―総合学術調査報告 (1971年)の記載では、かつて虚空蔵尊の石祠があったとあるが、昭和17年に姫野師が置いた石祠と思われる。天照大御神の石祠も姫野師が置いた同型のように見えるが、姫野師の石祠は屋根と塔身が一体となっており、細かい点で違う感じ。

【天照大御神の石祠】屋根と塔身は別々なので姫野師の石祠ではない感じ。




【姫野師らの石祠】どの祠も屋根と塔身は一体で、台石も滑らか。(写真は昭和17年に設置の大窟殿の石祠)




ちなみ姫野師が置いた石祠の窟名と祭神の名前が書かれた本によると、虚空蔵窟(虚空蔵菩薩)窟内三重なり と記載されており、三十三窟の再興にあたり、野池久左衛門の一派の資料を参考にしたのではなく、それぞれが独自の解釈でこの三層の窟を探し、それぞれの石祠を置いたと思われる。

三層窟と天岩屋の考察② → こちら

2020年11月3日火曜日

戸隠表山三十三窟の動画

撮りためてた戸隠表山三十三窟の動画をまとめてみた。春先に行った東窟や中窟を撮ってなかったのは残念でまた撮りに行きたい。

①は不動窟(不動明王摩崖仏)→鎖場→帝釈天窟、降三世窟、大威徳窟→無名窟→大窟殿→無名窟→大多和窟→無名窟(音は音楽のみ)

②は毘沙門窟→虚空蔵窟→長岩窟→西窟→愛染窟→無名窟→歓喜窟→無名窟→軍陀利窟→金剛窟(音は音楽のみ)


③は毘沙門窟→象窟→三層窟→五色窟→無名窟
気になるのが、石祠が倒れてしまっていたり、少なくとも前回行ったときにはあった金剛窟の石祠1基が倒れて、傘、身、台のうち、身が失われてたこと。

基本的には興味本位で行っているので、石造物をさわったりしないが、金剛窟のは窟の外に転がってしまっていたので、傘と台は窟の中に移動させた。身は探したが結局見つからなかった。

石祠は傘は重たいが、身は中がくり抜かれて軽いのか、バランスが難しいのだろう。窟の近くでカモシカを見たこともあり、動物がよりかかれば、倒れてしまうのかもしれない。文化財だし、大事にとは思うが、険しい山中にあり、難しい問題。

2020年9月27日日曜日

戸隠道①(善光寺-七曲り経由)

戸隠道は戸隠神社(近世までは戸隠山顕光寺)につながる道の総称。代表的な道は善光寺から戸隠神社までの表参道で三筋ある。(→戸隠道について

その中でも、善光寺から七曲りを経由する道は戸隠へのメイン参道で、明治初期の村図(信州デジタルコモンズ参照)より、長野町-富田村-上ヶ屋村-豊岡村-戸隠村図を参考に当時の戸隠道の道筋を探りながら、今も残されている石標をたよりに歩いてみた。

長野町:善光寺-湯福神社-(往生寺)-七曲り-富田村へ


長野町の明治初期の地図はないので、明治30年の長野市全図を参考に。明治32年に長野高等女学校ができ、戸隠街道を西沿いに移設したとのことで、地図はその前となる。青■は今も残っている石標(道標)で5つある。
善光寺経蔵前に善光寺経蔵前に明治15年「かるかや堂へ六丁戸隠へ通りぬけ道あり」の道標があり。戸隠へ行く際に往生寺にも寄って的な内容。
善光寺の西の出口にも道標「左 とかくしみち/かるかやみち 右 ざいごうみちがあり、路地を抜けると湯福神社。
湯福神社前には道標が2つ「左ハ かるかや往生寺/常念仏有わふ志やう/とかくしへのおく道あり」、(右側面)「右ハ とかくし道」、往生寺への丁石が1つある。往生寺へは6丁までの丁石をたどると行ける。
その後、県道沿いに進み、しぐれ沢との出合に南無阿弥陀仏の石標「この道よりかるかや往生寺すくみち三丁目あり善光寺へあふしやうしより六丁あり」がある。
七曲りの旧道はすでに藪となり歩けないが、県道は交通量が多く、こちらも歩くのには適さない。バスも廃止路線になったので、善光寺から鑪方面までバスで行き、かなりの大回りだが歩いて七曲り出口まで行く方がよい。スノーシェッドがはじまってすぐ右手の山側に如意輪観音がすてき。
七曲りは急斜面を登るため、旅の安全を祈願してか、馬頭観音など多くの石造物が置かれている。昭和の初めに道を整備した際にそれらの一部は崖の上などに移動して、今も見守っている。ただ横幅180㎝くらいの水鉢の馬頭観音は土砂に埋もれたのか、今は見当たらない。(馬頭観音の水鉢探しは→こちら

富田村:道標(荒安)-飯縄神社-道標(貉久保)-上ヶ屋村へ


富田村の絵図はかなり正確で分かりやすい。飯縄神社前を通る道は戸隠道と絵図にも書かれて太線赤字になっている。石造物も多く、分岐には石標(青■)がある。
七曲りのスノーシェッドを出ると、左手に2基石造物があり、右のお地蔵様にもとがくしの文字が見える。さらにするむと道標「右やまみち 左とがくし道」、左側面にも「とがくし道」(1782年)とある。
その先の筆塚を見つつ、飯縄神社里宮の案内板に従って進むと、この辺りにかつて東の茶屋というのがあり、団子が有名だったとのこと。舞鶴の松というのもあり、個人宅内だったがそれっぽいものがあった。

飯縄山里宮の石標には「本獄迠二里半余 夫より戸隠山中院迠一里」とある。ここは里宮で本獄は飯縄山の山頂をさし、本宮がある。
途中で天然記念物がある素桜神社にも足をのばしたり。道を進むと道標(貉久保)「右 とがくし山道 左とがくし山」とあり、左からも里道を行くと戸隠へは行ける案内になっている。進むと上ヶ屋村となる。

上ヶ屋村:道標(京田)-大座法師池-道標(麓原)-一ノ鳥居

上ヶ屋村全図:明治初期)

上ヶ屋村の絵図は上部の山麓原野に飯縄山の山頂(飯縄山本宮)も含まれているようで何か縮尺が曖昧。今の大谷地湿原に残されている道標には上野道(今の戸隠尾上、馬場方面?)とあるが、絵図にはその道は出てこないのでよく分からない。青■は石標。
少し進みバードラインの下をくぐると、立派な道標(京田)がある。「左 戸隠道 右 ざいごうみち」
このあとは舗装された山道を進むとバードラインと並行するような道となり、大座法師池へ進む。
バードライン沿いに大谷地湿原を過ぎると、道標(麓原)が2つ。「右とがくし山道 左うえの」とあり、ここから豊岡上野につながる道もあった様子。
この辺りからは古道が保存されて、環境省の中部北陸自然歩道「戸隠古道をたずねるみち」と合流するので、要所には案内板も出てくる。一ノ鳥居苑地まで行き、丘の上に登って行くと、かつて一ノ鳥居があった場所となり、ここから丁石を辿ると戸隠神社(近世までは戸隠山顕光寺)に至る。

下の図の戸隠道①(赤い線)が今回のルートになる。