戸隠山の三十三窟の内、東端にある知恵窟に行ってみた。(→戸隠表山三十三窟についてはこちら)
参考にしている戸隠村の石造文化財の本には、知恵窟の場所が他の窟に比べて随分と東に離れているため、一応この窟を知恵窟とするという感じで記載されている。場所は、地形図の九頭龍山の東側尾根にある1504mピーク辺り。
年末頃に戸隠神社随神門から続くスキーのトレースを辿って、1258ピーク辺りから北上して尾根に取り付いた。尾根を進むと途中にひとつ岩陰があった。高さが1m、奥行きも1m、幅8mくらい。何か人工物がある訳でもないけど。
その他にも周囲を岩壁で囲まれたような地形もあり、少し基部が洞穴っぽくなっているところもあったが、特に何も人工物はなし。
知恵窟
何だかんだで、1504mピーク近くにある知恵窟に到着。本の写真と見比べて岩模様が同じだから、この岩陰と思われる。岩壁の基部に位置していて、足元は沢筋が広がっていて景色はよい。
今回の知恵窟で29窟を巡ったことになり、大隈窟、小隈窟の2窟(高所のため行けないらしい)、戸隠神社奥社(本窟)、九頭龍社(龍窟)の2窟を合わせると、一応、三十三窟を行ったことになる。
三十三窟まとめ
2018年9月~2020年12月で訪れることが可能と思われる29窟を巡った。
余り訪れる人がいないためか、多くの石祠が倒れており、戸隠村の石造文化財(2004)に掲載されいる石祠の内、金剛窟にあった野池らの2つの石祠が失われていた。野池らの石祠は傘石、身、台石の3つから構成されてバランスが悪く、動物などが倒すと特に身が窟の外側に転がってしまい、雪崩などで谷側に流されてしまうのかもしれない。帝釈天窟の本心行者の石碑は折れてしまっていた。
未報告のものとして、姫野師らの地蔵尊の石祠と台石、天光雷音の石祠と台石、五色窟近くの岩棚に台石のみが1つと、野池らか姫野師らか分からない台石が1つの計4ヶ所の無名窟があった。また、専門書に以前あったと記載されている不動窟と帝釈天窟の間の鎖場はまだ残っていた。
考察にはなるが、三層窟にある天照大御神と刻まれた石祠は、本来は三層窟の背後の岩壁中腹にある天岩屋に納めるものを、そこまで行けないので野池らが三層窟に納めたと思われる。天岩屋はその窟の形から、長野縣町村誌の仙人窟に該当すると思われる。(三層窟と天岩屋の考察 → こちら)
長野縣町村誌の大隈窟と小隈窟については、三十三窟の中で一番標高が高いところにあるように描かれ、左が丸みをおびた三角形、右が丸形になっている。同じような形と位置関係の洞穴があるにはあり、標高もその他の窟と比べて一番高いが、中に石祠や人工物は何もない。(三角形の窟 → こちら)
これまでの戸隠山の三十三窟の場所などを整理するとこんな感じ。
赤■が戸隠表山三十三窟、紫■は無名窟(石祠あり)、青■は岩陰(人工物なし)【完】
余り訪れる人がいないためか、多くの石祠が倒れており、戸隠村の石造文化財(2004)に掲載されいる石祠の内、金剛窟にあった野池らの2つの石祠が失われていた。野池らの石祠は傘石、身、台石の3つから構成されてバランスが悪く、動物などが倒すと特に身が窟の外側に転がってしまい、雪崩などで谷側に流されてしまうのかもしれない。帝釈天窟の本心行者の石碑は折れてしまっていた。
未報告のものとして、姫野師らの地蔵尊の石祠と台石、天光雷音の石祠と台石、五色窟近くの岩棚に台石のみが1つと、野池らか姫野師らか分からない台石が1つの計4ヶ所の無名窟があった。また、専門書に以前あったと記載されている不動窟と帝釈天窟の間の鎖場はまだ残っていた。
考察にはなるが、三層窟にある天照大御神と刻まれた石祠は、本来は三層窟の背後の岩壁中腹にある天岩屋に納めるものを、そこまで行けないので野池らが三層窟に納めたと思われる。天岩屋はその窟の形から、長野縣町村誌の仙人窟に該当すると思われる。(三層窟と天岩屋の考察 → こちら)
長野縣町村誌の大隈窟と小隈窟については、三十三窟の中で一番標高が高いところにあるように描かれ、左が丸みをおびた三角形、右が丸形になっている。同じような形と位置関係の洞穴があるにはあり、標高もその他の窟と比べて一番高いが、中に石祠や人工物は何もない。(三角形の窟 → こちら)
これまでの戸隠山の三十三窟の場所などを整理するとこんな感じ。
赤■が戸隠表山三十三窟、紫■は無名窟(石祠あり)、青■は岩陰(人工物なし)【完】