『戸隠(とがくし)』とは―、
長野市の北部にあるちょっと標高の高いところで、春は雪解けの自然園で水芭蕉が見られて、夏は百名山の高妻山や岩々の戸隠山に登れて、秋は鏡池の紅葉を見て新そばを食べられて、冬は飯綱山でスキーをして森をスノーシューで散策できて、そして戸隠神社があるところ。
長野市の北部にあるちょっと標高の高いところで、春は雪解けの自然園で水芭蕉が見られて、夏は百名山の高妻山や岩々の戸隠山に登れて、秋は鏡池の紅葉を見て新そばを食べられて、冬は飯綱山でスキーをして森をスノーシューで散策できて、そして戸隠神社があるところ。
神社の案内によると明治初期までは神社でなくお寺で、その起源は842年頃の平安時代までさかのぼり、昔から日本有数の霊地として知られ、多くの人が戸隠を訪れていたとのこと。
戸隠神社案内板(要約)
『戸隠神社は、奥社・中社・宝光社の三社からなっており、平安時代から修験道が行われ、日本有数の霊地として知られていた。
縁起によると学問行者が修験を始めた842年頃が戸隠寺(奥院)の起源で、その後に宝光院(1058年)、中院(1087年)が開かれた。明治になり神仏分離により、寺を廃して、奥社・中社・宝光社となり、今に至る。』
縁起によると学問行者が修験を始めた842年頃が戸隠寺(奥院)の起源で、その後に宝光院(1058年)、中院(1087年)が開かれた。明治になり神仏分離により、寺を廃して、奥社・中社・宝光社となり、今に至る。』
絵図に描かれた江戸期の戸隠
江戸期の戸隠を描いた信州戸隠山惣略絵図を見ると、右下「一ノ鳥居」から参詣の道が戸隠山顕光寺「宝光院」「中院」「奥院」へ続き、絵図の上辺には一夜山から西岳・本院岳、戸隠山、高妻・乙妻山の山々が、戸隠山顕光寺と一緒に信仰の場として描かれている。
戸隠山顕光寺は戸隠神社へと変わったが、江戸期の絵図に描かれた多くの信仰の場所が、今も戸隠に大切に残されており、訪れることができる。絵図(信州戸隠山惣略絵図(白黒版))は、信州デジタルコモンズより見られる。
善光寺から戸隠へ至る戸隠道
かつて全国から戸隠を訪れた人は、戸隠道という参道を歩いていた。主な参道は善光寺からの道で、要所にある石の道案内を頼りに峠道を進み、途中の茶屋で力餅を食べて、「一ノ鳥居」を目指した。
「一ノ鳥居」には、かつては大きな石の鳥居があり、ここから戸隠山が見通せた。石造りの鳥居は弘化4年の大地震で倒れてしまったが、今でも鳥居の一部がそのまま残されている。
「一ノ鳥居」からは丁石を辿りながら進み、今は蕎麦屋がある「大久保」を通って、「宝光院」と「中院」の分岐を示す石の道標へと進む。
石の道標には、「左 ほうこういん(宝光院) 右 ちゅういん(中院)」と刻まれている。
「一ノ鳥居」から続く丁石と途中にいくつかある石の道案内を頼りに「宝光院」「中院」を巡り、絵図の真ん中左、今の戸隠神社奥社である「奥院」へと至る。この「奥院」の背後の山中には色々な修行の行場が描かれている。
戸隠表山三十三窟
絵図に○○窟として描かれている修行の行場は、戸隠山の山中に三十三あり、窟(くつ)という。窟はちょっとした洞穴のような小さなものから、岩陰のようなところなどさまざま。
縁起には、学問行者が九つの頭と一つの尾を持った鬼を岩屋に封じた話があり、岩屋(洞穴、岩陰、窟)が信仰の場となっている。実は戸隠神社奥社も窟で、それを覆うように社殿は建てられている。奥社は第一の本窟、その近くの九頭龍社も第二十四の龍窟となっているが、窟は秘所とされ、見ることはできない。
戸隠神社奥社から戸隠山へと登る登山道沿いにも三十三窟があり、登山道沿いの百間長屋は絵図中の「長岩窟」で岩壁の基部が大きくえぐれた岩陰の窟となっている。
その先にも絵図に描かれている「西窟(さいくつ)」があり、垂直の岩壁を鎖伝いに登ると中に石祠、石像などが残されている。修験者はこれら山中の三十三の窟をめぐり、回峰修行していた。
戸隠裏山十三仏・大澤通り
戸隠の奥院、三十三窟がある戸隠山一帯を戸隠表山というの対して、一不動から高妻山・乙妻山、その先の両界山までの尾根とそれに囲まれた奥裾花一帯は戸隠裏山という。
絵図の左上の戸隠裏山には、十三の仏が描かれているが、これらは戸隠裏山十三仏といい、今も高妻山・乙妻山登山道沿いに十三の石祠の一部が残されている。
絵図の左上の戸隠裏山には、十三の仏が描かれているが、これらは戸隠裏山十三仏といい、今も高妻山・乙妻山登山道沿いに十三の石祠の一部が残されている。
その他に戸隠裏山にはかつて修験者が窟や滝などの行場を巡って回峰した大澤通り(おおさわどおり)という修験者の道もあったとされているが、すでに廃道になっている。戸隠神社の青龍殿には大澤通りの行場を描いた「回峰行場絵図」が残されているが、どこを通ったのか分からないとされている。
西岳の霊窟群
絵図中ほど左には、いくつか○○寺跡がある。これは1468年頃、天台と真言の徒が修験の修法をめぐって争い、滅びた真言の寺跡とされている。今も鏡池の奥には真言の西光寺跡といわれる場所があり、西岳・本院岳から一夜山にかけて、かつて真言の行場があったようだがその遺構などは確認されていない。
戸隠表山(三十三窟)、戸隠裏山(十三仏、大澤通り)、西岳一帯の真言の行場(霊窟群)の位置関係はこんな感じで、これらの信仰の遺構は登山道沿いにあるものの他に、今も山中にひっそりと残されていると考えられるものもあり、少しずつ山中を巡って探している。
*絵図は戸隠神社中社の青龍殿にてお土産(800円)として販売しているが、現在コロナのため青龍殿は閉鎖中。