2026年5月3日日曜日

比良庄絵図「郡堺畳石」探し

琵琶湖の西の比良山地を描いた絵図に、比良庄絵図というのがある。絵図は下半分に比良山からリトル比良、上半分に武奈ヶ岳周辺の山々を描き、境界を線で囲う構図をしている。裏書には弘安三年(1280)、永和二年(1376)とあり、境を定めるために用いた絵図と考えられている。

絵図は非常に広範囲を描いている一方で縮尺は曖昧、境相論の関する事物(山名、河川名、岩など)を強調し、北が右、南が左となっている。境の目印となる山名、河川名、寺社名、地区名等の多くは、中世荘園絵図大成(1997)などで同定されているが、高嶋郡・志賀郡の境界の目印としている「郡堺畳石」は場所不明となっている。

比良庄絵図

そもそも比良庄絵図は3点知られており、元となった何かの絵図を写したものが、北小松、北比良、南比良地区にそれぞれ伝わっている。三地区の絵図は基本的に同じ内容だが、所々微妙に異なっている。「郡堺畳石」については三様の描き方で、南比良の絵図では書かれた文字が畳ではなく、郡堺「置」石のように読める。

この写しは現在の大津市側に3点伝わっている一方で、高島市側には伝わっていない。理由として、絵図が描かれた後の応永二十三年(1416)の境相論で高島市側は境界が広がっており、この絵図自体が不要、逆に持っていると不利な証拠となるためと思われる。

なので、「郡堺畳石」は今の大津市側から見ると境界が広がる大事な証拠、高島市側から見るとない方がよい境界の目印の岩となる。実際、承応4年(1655)に現在の高島市にあった大溝藩で描かれた千石組絵図では、「郡堺畳石」を含む範囲を描いるはずだが、絵図にはそれに該当する岩は見当たらない。

その後、享保元年(1716)の江戸表の評定所での裁許に使われた裁許絵図の写しも、判決が応永二十三年の時と同じ内容になったため、「郡堺畳石」に該当する岩は絵図には出てこない。

絵図の高嶋郡・滋賀郡堺を推定する

絵図から分かる「郡堺畳石」の場所は、近くに「長法寺」があり、向かい側は岳山の尾根、見張山の稜線から湖岸へ続く高島郡・滋賀郡の郡界上のどこかとなる。

この郡界はもちろん正確には分からないが、享保元年(1716)の裁許絵図には高嶋郡・滋賀郡境堀切が描かれている。この堀切は中近世古道調査報告 8 (2005)で報告されており、当時の境界を推定する上で参考になる。

また、現在の大津市側の資料にはなるが、永享八年(1436)の裁許で大津市側の境界が広がったことがあったようで、その際に境について、「…四拾八躰の比、小坂の一本杉、見宛の置石、峯に至りては限る水落方杉を定め置かるる処…」となっている。

四拾八躰とは、鵜川四十八躰仏を指すと考えられ、先述の堀切はそこから北に200m弱の場所にある。石仏の場所が変わっていないと仮定し、また「比」とあるのが元は「北」の写し間違えなら、堀切と同じ辺りを指していることになる。また見宛の置石は、南比良の絵図では置石と書いてあるが、元は「畳石」を指していたのかもしれない。

これらのことを参考にすると、当時の郡堺は近世のものと余り変わっていない可能性がある。近江国滋賀郡誌(明治15年頃)には測量に基づいた明治期の郡界が記載されいるが、これ以前だと絵図になってしまう。

それらの情報をまとめるとこんな感じになった(赤点線:明治15年頃のおおよその郡堺、赤枠:現存遺構、〇現存するもの、青点線:郡堺畳石があると考えられる範囲)。

郡堺が山の稜線を通ることは間違いなさそうなので、「郡堺畳石」は見張山から続く稜線~湖岸にある堀切または鵜川四十八躰仏辺りの青点線の範囲内にあると考えられる。

また、絵図では郡堺を山の稜線、「郡堺畳石」、大杉、小杉の順に描いている。年月の経過とともに変化する杉の木を郡界にしている理由として、本来は尾根や大岩にしたかったが、適当なものが現地になく、杉の木を当てたと考えられる。そのため、「郡堺畳石」は少なくとも湖岸のすぐ近くにはないと思われる。

現地で大岩を探す

境界周辺を歩き、大岩があれば地形図上にプロットしていった。湖岸に面した山の斜面には多数の大岩があり、また白鬚神社の後ろの山々、特に375mピーク周辺には祭祀跡と考えれる白鬚神社山頂遺跡があり、多数の大岩があった。

ただ、それより内陸側に行くと岩はほとんどなく、374mピーク(打下城跡)まで大岩は見当たらなかった。374mピークからは尾根沿いを見張山(516m)まで登って行くと、多数の大岩があった。その中で、特に特徴的なものとして、「馬の足(馬の足形)」の看板の立つ大岩があった。(青■大岩、赤■馬の足)

馬の足(馬の足形)

長法寺跡の北側の登山道沿いにある大岩で、高さ4m、横幅7m、卓上カレンダー型の傾いた平面を有し、文字は刻まれていない。一般に考えられる馬の足形のような窪みなどは見つけられず、馬の足が何を意味するのかは分からなかった。

この岩の謂れを調べると、大溝の水辺景観(2014)に地元の方の話として、ウマノアシ(馬の脚)は人の背より高く、馬の前脚が曲がっているような恰好でふすま三枚分ぐらい、と平たい面をふすまと表現をしていた。

また、高島の民俗には「長法寺の馬の爪跡」という話があった。義経が奥羽へ落ちのびる際に、闇夜に長法寺裏の岩の峯を岳山方面へ馬で抜けていった。そのときについたひづめ跡が、今も岩の面にはっきりと残っているとあり、この話では謂は脚の形ではなく、ひづめ跡となっている。

まとめ

現状では、郡界上にいくつか大岩があるため「馬の足」が「郡堺畳石」とは言い切れないが、畳のような平たい面を有し、中世に廃絶した長法寺との伝承をもつなど、何か特別な岩とは言える。

3つの比良庄絵図の「郡堺畳石」の描き方が異なっているため、「馬の足」と似ているなどの議論はあまり意味がない。「馬の足」は探している条件に合致はするが、もう少し長法寺跡の東側にあったらーとは思う一方で、探している範囲にぽっかりと岩がないのも事実。もちろん、この周辺では石切りが行われており、「郡堺畳石」がすでに存在しない可能性もあるが、この範囲では石切りの痕跡(矢穴のある石)は見かけない。

現在の高島市側(打下、鵜川)の人の目線で考えると、先にも書いたように「郡堺畳石」は不利になる境界の目印のため、なくてもよい岩となる。破壊すると境相論の相手方から文句がくるが、少なくとも「郡堺畳石」と呼ぶ必要はなく、「馬の足」と呼び方を変えた可能性もあるのかなと思う。

そして、鵜川の山には打下、鵜川の人が古い地名(字)の看板を多数残しており、今も「馬の足」として伝わっていると思えなくもない。

    ◇参考資料
  • 中世荘園絵図大成(1997)
  • 中近世古道調査報告 8 西近江路 滋賀県教育委員会(2005)
  • 「比良荘境争論絵図」調査報告(久留島著)
  • 滋賀県立図書館 滋賀県史採集文書 伊藤文書
  • 志賀町史 志賀町史編集委員会(1999)
  • 近江国滋賀郡誌(明治15年頃)
  • 大溝の水辺景観(2014)
  • 高島の民俗(1981)
  • 高島町史(1983)
  • 高島市文化財調査報告書1(2005)

2026年5月2日土曜日

鵜川の石切りと大仏殿の敷石の話

ちょくちょくと通っている滋賀県高島市の鵜川の山。明治6年頃の鵜川村の絵図には、白鬚神社の左の山中に石切谷という谷が描かれている。

石切谷ということは、石を切り出して麓の村で石垣にしたり、または商売として湖畔から搬出したりしたということだと考えられるが、図書館で郷土資料を読むとかつては石切りが盛んだったようである。

この描かれた石切谷がどこの谷かは正確には分からないが、実際に白鬚神社の左側の谷をぶらぶらと歩いていると確かに石切りの痕跡(矢穴)を見かける。

鵜川の山中で見かける矢穴には2種類あり、靴くらいの大きいサイズの矢穴と、小さいものがある。ネットで検索すると、時代によって矢穴の大きさが異なるようで、大きい方が古い時代の石切りの痕跡とのこと。(下の図の薄茶■は小さい矢穴がある石、濃い茶■は大きい矢穴がある石)

この大きい矢穴は、特に白鬚神社の背後の山中でちらほら見かけるが、そもそもこの辺りは白鬚明神の境内山で村人が簡単に石切りができるのか、と疑問が湧く。さらに切り出した石が桁違いに大きく、村人が生活の一部として切り出すような次元ではないサイズの石も見かけたりする。例えば、この石・・・。

見かけた中では一番大きいもので、縦7m、横5m、高さ1.5mくらいある。山側にも切られた側の岩があり、矢穴の並びの形からこの岩から切り出して、20mくらいは動かしたのち、放置されたと思われる。(切られた側の岩とその上から見た位置関係)

矢穴の並びの比較。合致するので元は同一の岩だと思われる。その当時、鵜川村に人が何人いたのか分からないが、AIに聞くとこのサイズの石は重さが100トン以上と想定され、動かすのには数百人が必要とのこと。そうすると、単なる村人の生業の痕跡とは考えにくい。。

郷土資料から辻褄が合いそうな出来事を探して勝手に決めつけると、京都にあった大仏殿の敷石を切り出した話が合いそうだった。慶長17年に鵜川で大仏の御敷石を切り出した際、小松の船に積むはずが打下の船に積み、争いになったとのこと。

京都の大仏殿とはー
豊臣秀吉公によって方広寺の大仏殿の造営は着手されたが、大地震により大仏が損壊、完成を見ることなく没した。その後、意志を継いだ秀頼公により再興も慶長7年(1602)出火で焼失。再び着手し、慶長17年(1612)に竣工、慶長19年(1614)に大仏開眼供養の運びとなったとのこと。

大仏の敷石は2000年頃に発掘調査されており、もう埋め戻されているが、京都国立博物館の中庭に一つだけ展示されている。この展示されている敷石と、鵜川に残された大きな矢穴の岩とが同じような石だったらいいなと思い、見比べに行った。

似ていなかった。展示されている敷石は白いが、鵜川に残された岩は黄色みがかっている。

まあ、残されている石なのだから、当然敷石に使われていないのだが、ひょっとしたら展示されている敷石もこの辺りのどこかで切り出され、京都の大仏殿の敷石を生んだありがたい谷として、鵜川村の人が石切谷と呼んだと考えることもできなくもないかな。

◇参考資料

・滋賀県立公文書館:滋賀郡第16区、鵜川村、絵図

・ 中世の紛争と地域社会:岩田書院(2009)

京都市埋蔵文化財研究所調査報告(法住寺殿跡・六波羅政庁跡・方広寺跡)

リーフレット京都 No.151(2001年8月)

・滋賀県史採集文書:鵜川北小松訴論書類抄など