善光寺周辺の「神社・寺・小路・池・清水・橋・塚」を七つずつ選んでおり、全部で四十九ヶ所。時代によって、微妙にリストアップに違いがあるが、善光寺参りにくる参拝者が+αでめぐったらしい。が、時代とともに善光寺四十九霊地は目立たなくなり、街の発展によって中にはどこにあった分からないものも。。
「七橋(ななはし)」は、裾花川から農業用に引いた用水が長野市中心部を横切っており、そこに架かっていたもの。もちろん今は暗渠になってしまって、一見したらわかないし、当然橋も残っていない。川・堰(せき)に架かっていたものだから、市内の用水路をたどっていけば、ある程度分かる。
名称は下記で「七橋」だが、出典によって違うので、九つほど知られている。
- 鶴が橋…北八幡川と中央通りに架かっていた。
- 地獄橋…中沢川と中央通りに交差点に架かっていた。
- 花合橋…鐘鋳(かない)川と中央通りに架かっていた。西光寺に石橋がある。
- 駒返橋…善光寺境内、昔の湯福川に架かっていた。まだ、ある。
- 淀ヶ橋…湯福川と北国街道に架かっていた。
- 独寝橋…鐘鋳(かない)川と宝塚通に架かっていた。妻科神社に石橋がある。
- 積善橋…待井(居)堰と栗田城~裁松院の善光寺道に架かっていた。再開発で場所跡が曖昧。
- 筋違橋…虎小路の以前のエビス社(西宮神社)前に架かっていた。本によっては岩石小路にあったとも。
- 応田橋…三輪にあった
鶴が橋跡・花合橋跡・駒返橋
長野駅から善光寺行く道の今の名称が中央通り。歩いていても橋は一つもないけど、善光寺本堂まで歩くと鶴が橋跡→地獄橋跡→花合橋跡→駒返橋と歩いたことになる。鶴が橋跡、花合橋跡、駒返橋は今も案内の石碑があるので場所はすぐ分かる。
地獄橋の場所は分かりにくく、中沢川(中沢堰)は北野文芸座辺りから通りをまたぎ、一度中央通りを長野駅方面へ進み、やま茶屋の路地へと進むので、北野文芸座前あたりか。「鐘鋳川」の本の絵図には中沢堰の流れがあり、橋も描かれている。
中央通り沿いの西光寺には、昭和15年3月の本堂改修記念碑があり、「善光寺七橋・・鐘鋳川」と文字があり、花合橋の石橋の一つを再利用したのだろう。
境石(さわるなの石)
酒饅頭本舗つるやがある大門南交差点を西に行くと、市立図書館があり、さらに進むと妻科神社。この道の下に暗渠となった鐘鋳川(堰)が流れている。善光寺領と松代藩領の境目なので、市立図書館の敷地には境石(さわるなの石)と石の由来と経緯を記した昭和4年11月の副碑がある。独寝橋
妻科神社の西に小さな十字路があり、そこに架かっていたのが独寝橋。坂道になっているのが宝塚通りで、10年くらい前まではコンクリート製の橋があったようだけど、今は暗渠に。神社の社務所の敷石は昔の石橋の一つで、「弘化二年・・・」と文字ある。境内に敷石は2つある。
淀ヶ橋
淀ヶ橋は、善光寺仁王門を東方面に歩いて、斜め左に北国街道が分かれていく交差点に架かっていた。この近くには、湯福川と鐘鋳川が立体交差するところもある。用水路のため、水の権利関係で合流させていなかったのかな?
筋違橋
筋違橋は、武井神社の西側に沿った虎小路の途中、虎が塚のところに石跡が立っている。もともとはこの辺りにエビス社(西宮神社)があり、その西側入口に小川があり、そこに架かっていた土橋とのこと。本によっては岩石小路にあったとの記載もあるが、よく分からなかった。武井神社の東側には鐘鋳川が流れており、以前架かっていた橋の石橋を相撲取りの雷電が境内に運んだという石が置かれている。上に乗ってもいいらしい。