鵜川の山に近江高島駅側から打下城跡経由で琵琶湖が一望できる鉄塔へ進み、長法寺への看板に従って下って行くと、「打下山 六さん石切り場→」という看板がある。以前、その矢印に従って進んだところ、人為的な土橋のような道が続いていた。
鵜川の山中には、打下城跡、長法寺跡などの遺構があり、もっと遡ると壬申の乱の三尾城(みおきの)もこの辺りにあって、土橋もその関連との話もあるみたい。確かに山中で土橋はたくさん見かける。-が、肝心の石切場らしきところは道沿いで分からず、どこにあるのか分からないままだった。
石切の痕跡を探す
この看板は山中にいくつかあり「墓塚跡→」の場合、100mほど先に実際にある。距離がある程度離れている場合は、「至天狗岩」と表現しており、「六さん石切り場→」は矢印なので比較的近くにあると思われる。そこで石切の痕跡を探しに、看板奥すぐ先の谷沿いを歩いたところ、石切の痕跡がたくさんあった。■赤:看板、■茶色:石切の痕跡
切り出した石は点在していたが、それだとどこから切り出してきたのか分からないが、切り出された側の石もいくつかあった。
L型の切り出された痕跡のある大岩
写真では分かりにくいが、平べったい高さ1m、幅3m、奥行き6mの大岩で、手前の下半分の右側3分の2だけ切り出されている。上半分には矢穴が縦に並んでおり、切り出す工程がよく分かる岩。周囲には切り出した手頃なサイズの岩も見ることができる。
矢穴が横に並ぶ岩
矢穴がずっと横に並んでいるが、そこで作業が止まっている。石切が行われている場所で、残っている大岩も多数あるが、多くは丸みをおびた少し崩れやすそうな岩。逆に切り出されている岩は花崗岩のように堅そう。
残されている岩も点在している。石切材として適さないのか、岩の知識がないので、その理由はよく分からない。
たまに切り出した石の集積地もある。不適で残されただけなのか、よく分からないが。
まとめ
六さん石切り場がここという看板は見当たらなかったが、おそらくこの一帯が石切場ということでよいと思われる。大きな岩盤から順に切り出していたということではなく、山中に点在する大岩から順に切り出し、無くなったら別の場所に移動していたのかも。山中にある石切の痕跡と大岩をまとめるとこんな感じ。■茶色:石切の痕跡、■青:大岩、点線:歩いた場所
山中には大岩が多数点在しており、残された理由は境界の問題なのか、石として不適なのか、運搬の問題なのか、信仰の対象などよく分からない。白鬚神社周辺の谷にも切り出した石をいくつか見かけたが、六さん石切場ほどたくさんはなかった。ただ鵜川村の明治初期の絵図には、白鬚神社寄りに石切谷という谷もあり、一帯で石切をしていたと思われる。
鵜川の猪垣をよく見ると、石切の跡が残されている。少し丸みをおびた岩が多いので、ひょっとしたら商品価値が少し低いものを使っているのかも。
打下地区の波止めの石垣は高そうな石だが、もう湖岸に面していない。鵜川、打下地区はかつては石工筋ばかりだったそうで、波止めの石垣、棚田の石垣は石屋のモニュメントだったとのこと。長く残されていくといいですね。
◇参考資料
琵琶湖の民俗誌(1984)









