2024年6月19日水曜日

高山寺絵図のもの探し③

寛喜二年(1230)に寺領を示す目的で作成された神護寺領牓示絵図、高山寺寺領牓示絵図、主殿寮御領小野山与神護寺領堺相論絵図の三幅の絵図。いずれも重要文化財になっている。

その中の高山寺絵図に描かれた「沓石」という岩は、現地の場所を特定されていないので探してみた。(高山寺絵図については こちら

「沓石」は、高山寺絵図の「栂尾高峯」の北側にあり、西側の谷「机谷」、東側の谷「葦谷」に挟まれた尾根上に、寺領の境目を示す赤線の内側に描かれている。

「栂尾高峯」は今の峰山と思われ、その辺りの尾根を探すかたちとなる。絵図について詳しい「絵図のコスモロジー」「中世荘園絵図大成」では、その辺りにあると推定しているが場所は不明としている。
「葦谷」はあしだにと読むのだろう。本では峰山の東側の谷を現地比定している。「京都中川の北山林業景観調査報告書(2019刊)」とという本にでてくる江戸時代の絵図にもあし谷の記載があり、現在の岩尾谷川辺りとしており、同様の場所と思われる。

「机谷」はつくえだにと読むのだろうか。現在も峰山の西側に行衛谷(ゆくえだに)という地名があるため、そこを現地比定したと思われる。

沓石

そもそも昭文社の地図には峰山北側の尾根上に大岩という記載があり、またYAMAPでもひときわ目立つ大岩があることが載っている。知らず知らずの内に現在でもランドマークとして機能している大岩が、峰山の北側の550m地点に少なくとも1つは存在していることになる。

実際に峰山から602mピーク、556mピーク、松尾峠へと続く尾根上、602mピークから549mピーク、420mピーク、中川中山の401mピークへ続く尾根上、峰山の東側の岩尾谷川、峰山の西側の行衛谷を探してみたが、絵図に描かれたものと形が似ていて、場所もおかしくない岩は、峰山の北側の550m地点の大岩しかなかった。岩に文字などは刻まれていない。
葦谷にあった岩。違うと思われる。
これが沓石ですと明確に示せる根拠は何もないが、この大岩が「沓石」だろうと思われる。