2021年2月23日火曜日

七曲りの馬頭観音はどこに②

七曲りの旧道にあるとされている馬頭観音の水鉢。道路わきに案内板も出ているが、現状ではどこにも見当たらない。(→七曲りの馬頭観音についての経緯はこちら

いつ頃まであったのか?

「長野市の石造文化財(昭和58年刊)」「芋井の石造文化財(平成19年刊)」に水鉢の写真が掲載されているが、写真が同じなので、平成19年頃まで水鉢があったという訳ではなさそう。

「戸隠古道を歩く(平成14年刊)」にも水鉢の話が出てくる。本によると、 七曲りを長野(善光寺)側から進入し、カーブを3回曲がったところの林道を進み、 石仏を見ながら奥へ進むと、やがて崩落箇所となり、そこで道はなくなる。

その崩落箇所の近くに石仏2基と看板があり、その写真が掲載されている。
写真の看板は水鉢の説明板で、この横に水鉢があったのでは?と思えるが、 本文中にはなぜか、かつてはこの辺りに水鉢もあったと過去形で書かれている。

そうすると、馬頭観音の水鉢は昭和58年~平成14年の間に失われてしまったのか。

「長野市の石造文化財(昭和58年刊)」「芋井の石造文化財(平成19年刊)」には鍋石・笹峯として24基の石造物が一覧となっており、場所を示す地図もついているが、表の灰色にした6基は2021年4月時点では見当たらないか、未確認。
馬頭観音の水鉢(No.20)は場所を間違えているのか、地図の場所にはない。周りの石造物との位置関係で考えると、如意輪観音(No.8)、馬頭観音(No.9)より奥側、聖観音(No.7)より山側、写真の2基の聖観音(No.10)、聖観音(No.11)の近くとなる。

実際に現地へ行くと、七曲りを長野(善光寺)側から歩きはじめ、カーブを3回曲がったところから県道をはずれ、倒木と藪で覆われた道を進むと白い軽トラが放置されている。
その先の山側に馬頭観音(No.9)、すぐ先に如意輪観音(No.8)がある。
その先は崩落箇所。この辺りは聖観音(No.7)より山側になるので、目的地を思われる。――が、結局、写真の2基の聖観音(No.10)、聖観音(No.11)も馬頭観音の水鉢の説明板も分からなかった。土砂に埋もれてしまったのか。
ところで鍋石・笹峯の24基の石造物一覧で、七曲りの新道開通に伴い、移設された石造物が5基ある。何度もこの道を通過しているのに全く気が付かなかったが、スノーシェッドを抜けた右手の崖上にある。ここに置くっていうのはすごいな。
No.14-18で左から、馬頭観音、聖観音、馬頭観音、地蔵、馬頭観音となる。
七曲りの途中の一本松にしても、スノーシェッドを吹き抜けにして切り倒さずにしたこと、馬頭観音の水鉢の案内板があることなど、道路を整備してもかつてのものを大事にしていたことがよく分かる。

馬頭観音の水鉢が失われているのが本当に残念。

2021年2月22日月曜日

七曲りの馬頭観音はどこに①

長野市の善光寺から戸隠へ向かう途中にカーブが連続する急坂がある。
スノーシェッドに覆われた片側1車線の狭い県道で、七曲りと呼ばれている。

その七曲りを長野(善光寺)側から進入し、カーブを3回曲がったところに馬頭観音の案内板がある。
この馬頭観音とは・・・?

この辺りはかつて戸隠神社(江戸時代までは戸隠顕光寺)への参詣道で、また物資の運搬等で人馬が往来した道であり、交通の難所だったので人馬の安全、供養で祀られた石仏が今もいくつか残されている。

案内板の馬頭観音もそんな一つであるが、石仏ではなく湧き水をためた水鉢のようだ。
昭和58年発刊の「長野市の石造文化財」には、側面に馬頭観音と刻まれた立派な水鉢の写真がでている。

昭和の初めに自動車が通れる七曲りが整備されて旧道は使われなくなったが、地元の人がこの案内板を作成して、馬頭観音の水鉢を大事にしていたということでしょう。

――2月にこの馬頭観音の水鉢を見にいった。☆印が案内板の場所。
まずは善光寺から湯福神社、長野西校の脇を抜けて坂道を進む。
スノーシェッドは交通量が多く、歩くと危ないので、ガードレールの外側を歩いて進んだ。
入り口から少し進むと進行方向右手、山側の岸壁に東大地震研究所と如意輪観音がある。薄暗いシェッドの中で、光が観音像にあたり神々しく見える。
先に進むと左手に車が通れる未舗装の道が出てくるので、七曲りのスノーシェッドから外れてそちらを進む。
右手に苔むした石造物と五輪塔。

途中に水道関連の設備がいくつかある。
さらに進むと、聖観音の石仏と土に埋もれた水鉢があった。
ただ、何だか写真の水鉢と違う。側面にも馬頭観音と刻まれいないし、そもそも形が違う。

その後も周辺をウロウロするが見当たらず、どこにあるのか分からない。旧道から七曲りの県道にもどり、スノーシェッドの出口過ぎまで行く。案内板の左手脇に地蔵と聖観音。
少し山の中なので、管理が難しくて湯福神社に納めたのかもと思い、帰りに寄るも水鉢は見当たらなかった。
「長野市の石造文化財(昭和58年刊)」「芋井の石造文化財(平成19年刊)」に掲載されている馬頭観音の水鉢はどこにあるのでしょう・・・。

2020年11月16日月曜日

戸隠表山三十三窟⑧(26~28窟/33窟)

日時:2020年11月8日(日)
ルート:戸隠神社奥社-戸隠山登山道-五十間長屋-三層窟-仙人窟-五色窟-奥社

秋も深まり、草木も枯れて藪もうすくなってきたので、戸隠山の窟めぐりに出かけた。

戸隠表山三十三窟とは
 窟とは岩陰、岩屋、洞穴のことで戸隠山の山中には、戸隠神社奥社である第一番目の本窟から三十三番目の大多和窟まである。
 戸隠神社奥社の本窟と、九頭龍社の龍窟は建物に覆われて窟は見れないが、残りの31の窟は山の中で見られる。大隈窟、小隈窟は高所で行けず、実際は29窟が行ける窟となる。
 (→戸隠表山三十三窟を詳しく)


まずは戸隠神社奥社の手前から戸隠山の登山道を五十間長屋まで登る。Go toのおかげで奥社は紅葉の時期も相まって、観光客たくさん。駐車場から1時間くらいで到着。



ここで登山道から外れて、谷筋へ。登山者から道間違えてませんかと声をかけられ、大丈夫です―と答えて、ササっと藪に消える。象窟を経て、三層窟へ。

三層窟

一段目はちょっとした洞穴が2つ。二段目に崩れているが石祠が3基。中二段に「天照大御神」と彫られた石祠が1基。三段目は登るにはちょっと怖くて行けなかった。ただ、何もなさそうな感じ。
(→三層窟についての考察はこちらのページ)


三層窟を後に藪を漕いで標高を上げて進むと岩壁にでる。


仙人窟

何かある訳でもなく、水がしたたり、じめじめした岩陰。景色はとても◎。


仙人窟を後に岩壁沿いを進むと、五色窟にでる。

五色窟

岩棚があり、石祠の台石のみが残っていた。上から見ると正方形で彫り跡がない表面で何となく昭和17年に置かれた姫野師らの石祠っぽい。

すぐ近くに岩壁基部がえぐれた部分があり、石祠が1基。これも姫野師らの石祠で「文珠尊」と彫られており、"山の形が獅子で、窟はその口に位す"ので獅子窟と本には書かれている。



この後、さらに岩壁沿いに進むが大スラブ帯でちょっといやな感じで、中窟、東窟方面に行くのはやめて、また藪を進む。


無名窟

途中にちょっとした岩場があり、石祠が置かれていた。これも姫野師らの石祠で「天光雷音」と彫られているように見えた。本には、天鼓雷音如来は雷窟に置き、"窟内は円満にして光明をはなつ"とあるが、陽当たり良いためか、岩場全体がもとから明るい感じだった。



その岩場のすぐ先にも小さい洞穴が2つあったが、中には何もなかった。

戸隠村の石造文化財(2004年)による戸隠表山三十三窟に従うと、これで窟は秘所のため見られない戸隠神社奥社と九頭龍社の2窟を除くと、28/31窟をめぐったことになった。

大隈窟、小隈窟は高所で行けいないとされているので、あとは知恵窟のみ。



2020年11月14日土曜日

三十三窟の考察①(三層窟と天岩屋)

戸隠表山三十三窟の中に三層窟というのがある。

三層窟というからには、窟が三層になっている窟と思われるが、窟の名称は時代とともに変化したりして、令和の時代にどの窟がどれかというのを同定するのは難しい。

三十三窟に一定の見解を示している戸隠村の石造文化財(2004年)では、やはり窟が層状に三段になっている窟を三層窟としている。写真でこんな感じ。


この三層の窟内には、中段に散乱した石祠が3基、右側の岩壁の中ほどに天照大御神と刻まれた石祠が1基ある。

戸隠―総合学術調査報告 (1971年)では、この他に中央の高い岩棚に虚空蔵尊の石祠があるので虚空蔵窟として掲載されているが、この石祠は今は失われている。


他の窟に比べたら石祠はたくさん残されている窟ではあるが、やはりどんな窟で何なのかーというのは決め手はないが、先日、長野市の公文書館で見てた資料とちょっとつじつまが合いそうな記載があった。

江戸末期から明治初期にかけて、荒廃していた戸隠表山三十三窟の再興に取り組んだ野池久左衛門の一派の明治8年の資料で、十四窟分の名称、祭神などが書かれている。

その中に――、

 第三 三層窟 祭神 高皇産霊神、天之御中主神、神皇産霊神
 第四 天岩屋 祭神 天照大御神
 但しこの岩屋は行くのは難しいから、三層窟から拝む的な・・・

とある。

ちょっと古文書の読解には知識不足で意味があっているのか、よく分からないが。。でも三層窟は祭神が三で、石祠も3基あり、右の岩棚に天照大御神の石祠があるので、天岩屋には行けないのでこの三層窟から拝み、石祠もここに置いたということで合ってそうな。。

また天照大御神の石祠の延長上の岩場の中腹には岩穴らしきものがある。 



戸隠―総合学術調査報告 (1971年)の記載では、かつて虚空蔵尊の石祠があったとあるが、昭和17年に姫野師が置いた石祠と思われる。天照大御神の石祠も姫野師が置いた同型のように見えるが、姫野師の石祠は屋根と塔身が一体となっており、細かい点で違う感じ。

【天照大御神の石祠】屋根と塔身は別々なので姫野師の石祠ではない感じ。




【姫野師らの石祠】どの祠も屋根と塔身は一体で、台石も滑らか。(写真は昭和17年に設置の大窟殿の石祠)




ちなみ姫野師が置いた石祠の窟名と祭神の名前が書かれた本によると、虚空蔵窟(虚空蔵菩薩)窟内三重なり と記載されており、三十三窟の再興にあたり、野池久左衛門の一派の資料を参考にしたのではなく、それぞれが独自の解釈でこの三層の窟を探し、それぞれの石祠を置いたと思われる。

三層窟と天岩屋の考察② → こちら

2020年11月3日火曜日

戸隠表山三十三窟の動画

撮りためてた戸隠表山三十三窟の動画をまとめてみた。春先に行った東窟や中窟を撮ってなかったのは残念でまた撮りに行きたい。

①は不動窟(不動明王摩崖仏)→鎖場→帝釈天窟、降三世窟、大威徳窟→無名窟→大窟殿→無名窟→大多和窟→無名窟(音は音楽のみ)

②は毘沙門窟→虚空蔵窟→長岩窟→西窟→愛染窟→無名窟→歓喜窟→無名窟→軍陀利窟→金剛窟(音は音楽のみ)


③は毘沙門窟→象窟→三層窟→五色窟→無名窟
気になるのが、石祠が倒れてしまっていたり、少なくとも前回行ったときにはあった金剛窟の石祠1基が倒れて、傘、身、台のうち、身が失われてたこと。

基本的には興味本位で行っているので、石造物をさわったりしないが、金剛窟のは窟の外に転がってしまっていたので、傘と台は窟の中に移動させた。身は探したが結局見つからなかった。

石祠は傘は重たいが、身は中がくり抜かれて軽いのか、バランスが難しいのだろう。窟の近くでカモシカを見たこともあり、動物がよりかかれば、倒れてしまうのかもしれない。文化財だし、大事にとは思うが、険しい山中にあり、難しい問題。