2021年7月4日日曜日

七曲りの馬頭観音はどこに③

長野市の七曲りに立派な案内板あるけど、どこにも見当たらない馬頭観音の水鉢。(→七曲りの馬頭観音についての経緯はこちら
春先に何度か見に行ったけど、結局分からずじまいで、また草木が枯れる冬待ち。そんな折、以前読んだ長野郷土史研究会の機関誌『長野』に、先生が馬頭観世音の水鉢の探しにいく話があったな~、どの号だっけと図書館に行くたびに順に読み直してやっとその記事にたどり着いた。

第95号(1981年)「生きた馬を供養した馬頭観世音」

要約すると、

・20年以上前――、著者が七曲りの馬頭観世音の水鉢を見に行き、写真を撮って芋井の行事で紹介した。
・聴講者も子供のころから馬頭観世音の水鉢を知っており、水鉢の他に丸い石のうけ鉢があり、戸隠から来た馬の脚や腹を洗う用に使っていた。その後、丸いうけ鉢は沢づたいに転がし落として、鍋石へあがるところの清水のうけ鉢にして、人用の水飲み鉢にした。
・数年後――、著者が再び馬頭観世音の水鉢を見に行ったところ、大分部は土砂に埋もれ、水鉢の縁が少し出ているだけになっていた。
・長野市立博物館が史跡公園内に建設されることになったので、できれば博物館に移設してはどうか――、で締めくられていた。

第95号その後

第95号の記事を見た地元の有志が水鉢を掘り起こし、現地保存していこうと、長野市の観光課に相談。旧道を刈り分けて遊歩道を整備。

結局、いつ頃まであったのか。

七曲りの馬頭観世音が載っている郷土資料は4つ見つけた。上記の機関誌『長野』、長野市の石造文化財(第5集:1983年(昭和58年))、戸隠古道を歩く(2002年(平成14年))、芋井の石造文化財(2007年(平成19年))。

本の内容を時系列で並べると、
 1981年(昭和56年):水鉢の写真あるも、何年も前の話。その時点で土砂に埋もれかけている。案内板の話はなし。
 1982年(昭和57年):4月に水鉢を掘り起こす。水鉢の写真あり。案内板の話はなし。
 1983年(昭和58年):水鉢の写真あり。案内板の話はなし。
 2002年(平成14年):水鉢の写真はなく、本文にも水鉢の話は出てこないが、水鉢の案内板の写真がある。
 2007年(平成19年):写真は長野市の石造文化財と同じで、水鉢の案内板は写真ではなく、文面のみ。
 2021年(令和3年) :現地には何も見当たらない。離れた箇所に別の水鉢がある。

馬頭観世音の水鉢の案内板の文面には、機関誌『長野』の記事の著者の名が出てくるので、記事の後に作成したのかなと思われる。昭和57年に地元の方が掘り起こして長野市観光課に相談した際に、「生馬供養馬頭さん」案内板と遊歩道を整備し、七曲りの道路沿いにも「馬頭観音」の看板を設置したと考えるのが、妥当な感じ。

もつ一つの水鉢

また、水鉢を見に行った際に見かけたなぞの水鉢は、機関誌『長野』の記事にでてくる馬の脚や腹を洗う用の丸いうけ鉢で、のちに鍋石へあがるところの清水のうけ鉢にしたというものっぽい。実際に鍋石への分岐の水の通り道に埋もれているし。
人里離れたところにある文化財の保護は難しい。時が経ち、世代が変われば、尚の事。今はまだ戸隠からの導水管があるので、七曲りの旧道に少し道はあるが、往生寺の水道施設が役目を終えたら、この道は手入れもしないでしょう。機関誌『長野』の著者が書いていたが、埋もれていても保護の観点からいうとそこにあることに変わりはないので、それはそれでいいのでしょうけど。