2019年9月17日火曜日

登山に必要な栄養とカロリー

下山すると痩せている

GWに2泊3日で北アルプスに行って、朝はラーメン、日中の行動食はパンやカロリーメイト、夜は鍋とちゃんを食べてても、家に帰って体重を測ると1.5kg減っていたりする。だいたい、脱水傾向だけど、その後水分をしっかり摂って、3食きちんと食事をとっても、1週間後も1kg痩せたままだったりする。

食べたカロリーより消費カロリーが多い

当たり前だけど、食べているカロリーよりも消費しているカロリーの方が多いから、体重が減ってしまう。行動中の足りなかったカロリーは、筋肉、脂肪を燃焼させて補い、その分が体重として減ってしまう。特に筋肉は水分を含む量が多いので、体重が減ったということはそれだけ、太ももや腕が細くなったということになる。

1日に必要な食事と水分をしっかり取れば体重は変わらないが、登山だと荷物として担げる重さが限られており、足りなくなってしまう。

1日に必要な食事量

厚生労働省は、日本人が1日にどのくらいの栄養成分(カロリー、炭水化物、脂質、タンパク質、ナトリウム、カリウム、ビタミン、他)を取ったらよいか、年齢、性別で詳細に記載した日本人の食事摂取基準(2020年版)を示している。

病気で入院して、鼻や胃にチューブで栄養剤だけを投与して何年も生きていけるのは、その基準に基づいて1日に必要な栄養成分がすべて満たされた栄養剤を投与しているから。

一目で分かるカロリーや炭水化物、たんぱく質、ビタミンの必要量の目安として、栄養等表示基準値(下の図)がある。これは日本人の食事摂取基準の値を性別、年齢、人口などから加重平均したもので、食品のパッケージの栄養表示で「タンパク質を強化」、「ビタミンを1日分を含む」などの文言は、この栄養素等表示基準値から表示することが定められている。

登山中は消費カロリーが増えているので必要量はもっと多いが、厳密に計算してすべてを満たすというのは荷物の関係で現実的ではないので、少しでもこの表の値に近づけられればよい。正確に摂取したい人は、1日の消費カロリーを計算して、医療用の食品タイプの栄養剤を通販で購入し、カロリー分だけ摂取すれば、水分以外はおおよそすべてが満たされる。

どの栄養素が大事か?

熱量(カロリー)、三大栄養(たんぱく質81g、脂質、炭水化物)、食物繊維、電解質(ナトリウム2900㎎(食塩相当量7.4g)、カリウム、マグネシウム、カルシウム、リン)、微量元素(鉄、亜鉛、銅、マンガン、ヨウ素、クロム、モリブデン、セレン)、ビタミン13種類が記載されているが、毎日必ず全部の栄養成分が必要ではない。

余り気にしなくてもよい栄養成分
日帰り~1週間程度の登山で食物繊維は必須ではない。微量元素も短期で足りなくなることはまずない。ビタミンも、ビタミンB1以外は1週間程度で足りなくはならない。

ビタミンB1は足りなくなると脚気(かっけ)などになり、ラーメン、米のみを食べ続けたりすると重篤な症状が出る可能性がある。ビタミンB1が炭水化物(糖質、砂糖)の代謝に関わっているためで、それを予防するために加工食品、例えばチキンラーメンには、麺と一緒にビタミンB1も入っていて、今は食事をきちんと摂ればそこまで気にする必要はない。

気にしたい栄養成分
登山で特に気にした方がよいのは、熱量(カロリー)、タンパク質、電解質(特にナトリウム(食塩))とビタミン(特にビタミンB1)。

日帰り~1週間長期登山や縦走の際に、普段からよく山で食べている加工食品の栄養成分をある程度覚えておくと、それを基準に調整しやすい。

カロリーメイトだと、1本が100 kcal、タンパク2g程度、食塩0.2g程度なので、行動食として8本食べれば、800 kcal、タンパク16.4g、食塩1.6gとなり、ビタミンと電解質、微量元素は困らない程度の種類は入っているので1日必要分以上は摂れる。ビタミンのビオチンとビタミンKは入っていないが、どちらもある程度は腸内細菌から合成される。ちなみに水分が少ないので軽量で、厳冬期も凍ったりせずに普通に食べられる。1日の必要本数をジップロックに入れておくと分かりやすく、下山して余ったら冷凍庫にいれて保存すればよい。

そこからタンパク質を増やしたければ、ソーセージを持っていくとか。タンパク質は量だけでなく、質も大事で動物性のものや大豆たんぱくの方がよい。これらを行動食として、定期的に食べておけばシャリバテも防げる。

もちろんは水分と電解質は大事。

長時間何も食べなくても何とかなるが、脱水になると頭痛やめまい、足がつる、痙攣など大きな問題につながる。水分だけでなく、ナトリウムなどの塩分、糖質が入った飲料(少し塩を加えるとよい)をしっかり摂ることで脱水予防になる。

飲む量の目安は定期的に排尿があるかどうか。普段は午前中に3回くらいトイレに行くのに、早朝からの登山で全くトイレに行きたくなっていないのなら、もう脱水で水分が足りていない事になる。行動食を摂りつつ、行動中も1日に水分を冬山なら500ml以上、夏山なら1200ml以上は飲んでおきたい。

ちなみに何を食べようが、カロリーとタンパク質は足りてないので、朝と夜の食事時にはお肉多め、塩分多め、脂肪多めで少しでも補い、あとは体に蓄えられている脂肪と筋肉を燃やすしかない。


戸隠山の信仰遺構ガイド

『戸隠(とがくし)』とは―、

長野市の北部にあるちょっと標高の高いところで、春は雪解けの自然園で水芭蕉が見られて、夏は百名山の高妻山や岩々の戸隠山に登れて、秋は鏡池の紅葉を見て新そばを食べられて、冬は飯綱山でスキーをして森をスノーシューで散策できて、そして戸隠神社があるところ。

神社の案内によると明治初期までは神社でなくお寺で、その起源は842年頃の平安時代までさかのぼり、昔から日本有数の霊地として知られ、多くの人が戸隠を訪れていたとのこと。

戸隠神社案内板(要約)
『戸隠神社は、奥社・中社・宝光社の三社からなっており、平安時代から修験道が行われ、日本有数の霊地として知られていた。

 縁起によると学問行者が修験を始めた842年頃が戸隠寺(奥院)の起源で、その後に宝光院(1058年)、中院(1087年)が開かれた。明治になり神仏分離により、寺を廃して、奥社・中社・宝光社となり、今に至る。』

絵図に描かれた江戸期の戸隠

江戸期の戸隠を描いた信州戸隠山惣略絵図を見ると、右下「一ノ鳥居」から参詣の道が戸隠山顕光寺「宝光院」「中院」「奥院」へ続き、絵図の上辺には一夜山から西岳・本院岳、戸隠山、高妻・乙妻山の山々が、戸隠山顕光寺と一緒に信仰の場として描かれている。

戸隠山顕光寺は戸隠神社へと変わったが、江戸期の絵図に描かれた多くの信仰の場所が、今も戸隠に大切に残されており、訪れることができる。絵図(信州戸隠山惣略絵図(白黒版))は、信州デジタルコモンズより見られる。

善光寺から戸隠へ至る戸隠道

かつて全国から戸隠を訪れた人は、戸隠道という参道を歩いていた。主な参道は善光寺からの道で、要所にある石の道案内を頼りに峠道を進み、途中の茶屋で力餅を食べて、「一ノ鳥居」を目指した。

「一ノ鳥居」には、かつては大きな石の鳥居があり、ここから戸隠山が見通せた。石造りの鳥居は弘化4年の大地震で倒れてしまったが、今でも鳥居の一部がそのまま残されている。
「一ノ鳥居」からは丁石を辿りながら進み、今は蕎麦屋がある「大久保」を通って、「宝光院」と「中院」の分岐を示す石の道標へと進む。
石の道標には、「左 ほうこういん(宝光院) 右 ちゅういん(中院)」と刻まれている。
「一ノ鳥居」から続く丁石と途中にいくつかある石の道案内を頼りに「宝光院」「中院」を巡り、絵図の真ん中左、今の戸隠神社奥社である「奥院」へと至る。この「奥院」の背後の山中には色々な修行の行場が描かれている。

戸隠表山三十三窟

絵図に○○窟として描かれている修行の行場は、戸隠山の山中に三十三あり、窟(くつ)という。窟はちょっとした洞穴のような小さなものから、岩陰のようなところなどさまざま。

縁起には、学問行者が九つの頭と一つの尾を持った鬼を岩屋に封じた話があり、岩屋(洞穴、岩陰、窟)が信仰の場となっている。実は戸隠神社奥社も窟で、それを覆うように社殿は建てられている。奥社は第一の本窟、その近くの九頭龍社も第二十四の龍窟となっているが、窟は秘所とされ、見ることはできない。
戸隠神社奥社から戸隠山へと登る登山道沿いにも三十三窟があり、登山道沿いの百間長屋は絵図中の「長岩窟」で岩壁の基部が大きくえぐれた岩陰の窟となっている。
その先にも絵図に描かれている「西窟(さいくつ)」があり、垂直の岩壁を鎖伝いに登ると中に石祠、石像などが残されている。修験者はこれら山中の三十三の窟をめぐり、回峰修行していた。

戸隠裏山十三仏・大澤通り

戸隠の奥院、三十三窟がある戸隠山一帯を戸隠表山というの対して、一不動から高妻山・乙妻山、その先の両界山までの尾根とそれに囲まれた奥裾花一帯は戸隠裏山という。

絵図の左上の戸隠裏山には、十三の仏が描かれているが、これらは戸隠裏山十三仏といい、今も高妻山・乙妻山登山道沿いに十三の石祠の一部が残されている。
その他に戸隠裏山にはかつて修験者が窟や滝などの行場を巡って回峰した大澤通り(おおさわどおり)という修験者の道もあったとされているが、すでに廃道になっている。戸隠神社の青龍殿には大澤通りの行場を描いた「回峰行場絵図」が残されているが、どこを通ったのか分からないとされている。

西岳の霊窟群



絵図中ほど左には、いくつか○○寺跡がある。これは1468年頃、天台と真言の徒が修験の修法をめぐって争い、滅びた真言の寺跡とされている。今も鏡池の奥には真言の西光寺跡といわれる場所があり、西岳・本院岳から一夜山にかけて、かつて真言の行場があったようだがその遺構などは確認されていない。

戸隠表山(三十三窟)、戸隠裏山(十三仏、大澤通り)、西岳一帯の真言の行場(霊窟群)の位置関係はこんな感じで、これらの信仰の遺構は登山道沿いにあるものの他に、今も山中にひっそりと残されていると考えられるものもあり、少しずつ山中を巡って探している。

*絵図は戸隠神社中社の青龍殿にてお土産(800円)として販売しているが、現在コロナのため青龍殿は閉鎖中。

2019年9月16日月曜日

西岳霊窟探し⑥(西岳沢)

日程:2019年9月15日(日)、晴れのち曇り
ルート:西岳登山口8:00-西岳沢-本院岳ジャンダルム基部12:00-登山口16:00

本院岳・西岳~一夜山にかけてには、かつて戸隠修験の霊場だったが、1500年代頃には廃れてしまったとのこと。人知れず石仏や石祠などが山中に残されていないか、霊場であったであろう窟探し。→西岳霊窟群の絵図

いつも気になっていた本院岳の1836m峰(ジャンダルム)の南西岩壁の基部に行ってみた。
写真の右の岩峰が1836m峰、左のピークが本院岳あたり。

上から見下ろすと、1836m峰の岩壁基部に洞穴があるように見える。

まずは西岳登山口から沢沿いに西岳沢を遡行し、途中から枝沢に入り、1836m峰方向へ。

途中で稜線から場所を確認したら、崖の上で丁度真下だったので50mロープいっぱいで下降。

本院岳ダイレクト尾根の過去の記事に大伽藍のような地形とあったが、確かに周囲を岩壁で囲まれ、正面の岩壁も覆いかぶさるような感じ。

早速、基部の洞穴のようなところへ行ったが、実際はちょっと窪んだ岩陰程度で想像と違った。

こちらから見ると洞穴には見えなかった。

周囲には岩場が続いており、他にもちょっとした洞穴のような形状もあるが、そんな大きくもない。


反対側の岩壁にも洞穴のような場所があり。



景色もよく、とてもいい感じの場所だった。ちなみに修験者がここで修行してました的なものは何も見かけず。そもそも、ここへロープ使ってきちゃったし。。

西岳霊窟群の窟探し⑦→本院岳の黒滝周辺で窟探しへ

2019年9月2日月曜日

「大澤通り」探し⑥(乙妻山)

日程:2019年9月1日(日)曇り、一人
ルート:戸隠牧場5:20-高妻山8:30-乙妻山9:20-2100m岩壁10:30-戸隠牧場16:45

江戸時代の修験者が通った大澤通しを探しに乙妻山へ。
何となく通過地点が分かってきて、最終目的地探しに紫円周辺へ。



「大澤通り」は、江戸末期に佛心という修験者が高妻山の山頂に神鏡を奉納し、三十三回の入峯修行をしたという修験者の道。

どこを通っていたのかは、はっきりしていないが、佛心が残した「回峯行場絵図(1862)」では、高妻山の裾を巡って「大日拝礼」で山のような「大日如来」を拝礼して、「十万八千佛曼荼羅御岩」を通って、高妻山の先の「小池弁財天」より奥にある「虚空蔵前立」へ抜けるような道となっている。→千丈滝・大澤通りについて


絵図の目指している「虚空蔵前立」の横のコルに「小池弁財天」とあるので、今の十二大日の看板よりは奥の山頂と思われる。

正直、現地に行って、これが「十万八千佛曼荼羅御岩」かなと同定するのは無理だろう。
そもそも、絵図に山の一部のように描かれた「大日如来」って何だろう。
一番現実的なのは、「大日拝礼」とある拝礼するのようなところを探すくらいか。

まずは、小池のあるコルを通って、2318mの乙妻山へ。4人組Pと少し会話。

根曲がり竹の藪がひどいが、少し下りると、登山体系にあるウロコ状のスラブにでる。

2100m岩壁の基部まで下りて、横へ横へと何かないか探す。




窟もないし、何か掘ったような痕跡もないし、岩に何か刻まれてもないし、もちろん人工物もない。周辺を写真にとるが、気になるような場所は余りない。

岩壁を見上げても、「大日如来」には見えないし、目立つような拝礼場所も分からない。

しいて言えば、「十万八千佛曼荼羅御岩」はたくさんの仏さんがいる曼荼羅岩だろう。
ウロコ状のスラブが、たくさんの仏に見えなくもないし、珍しい地形ではある。

急傾斜のスラブ地形が150m以上続いているが、全然すべらないので普通に登れると思われる。

ところで、乙妻山へ登り返すときの藪漕ぎはひどかった。背丈以上の根曲がり竹?か、弾力があって滑るし、全然進まないし、その状態が30分以上続いた。

この藪は――。

戸隠神社奥社の随神門の手前右手に石碑がある。「大澤通刈分」と書かれており、草を刈り分けてして道を作った的な意味らしい。乙妻山への登りのうんざりする藪を草刈りするのは相当な重労働だけど、刈って道を完成させてました記念碑は分かるような気がする。






まあ、何も見つけれなかったし、決め手がないなーというのが行ってみた感想。