2021年12月30日木曜日

長野市の徳本塔めぐり

松本や長野をぶらぶら散歩していると、「南無阿弥陀仏」の六文字が特徴的な字体で掘られた石造物をやたらと見かける。江戸時代の行者に由来するもので、六字名号碑、または名号石、名号塔というらしい。

山登りする人なら馴染みのある播隆(ばんりゅう)上人も名号碑を残しているけど、そこまで数が多くなくて、松本や長野で見かける名号碑の多くは徳本(とくほん)上人のもの。徳本上人は文化13年(1816年)4月~8月に長野県を訪れたそうで、その時に熱狂的な歓迎を受け、各地でこぞって名号碑が建てられたとのことだった。
去年、長野市立博物館で徳本上人の特別展があり、ガイドブックを1000円で買ったら、全国の名号碑一覧表が付いていた。それによると、名号塔(徳本塔)は全国でも長野県が493基と飛びぬけて数が多く、市町村だと長野市が94基(ガイドブックでは96基とあるが、その差はリストがないので不明)で一番多いとのこと。

この長野市の徳本塔94基を巡ってみた。鬼無里は遠すぎるので車で行ったが、ある程度はジョギングしながら、順に周った。ただ、道端や公民館、寺の境内だけでなく、個人の墓地や私有地の畑などにも徳本塔があるので、遠目に見たのも含めて88/94基は行けたが、6基は私有地内で勝手に入る訳にもいかずよく分からなかった。

その他に特別展のHPの分布図に信州新町の普光寺に追加で1基、長野市の石造文化財に出ている西長野の西光寺が1基、戸隠豊岡の個人墓地(墓碑)に1基、稲葉の瑠璃光寺に1基あったので、92基訪れて、6基行けずとなった。赤□は訪問済み、緑□は6ヶ所はよく分からず(朝日北堀、戸隠中ノ地、篠ノ井塩崎会、信州新町、小松原、小田切)。
徳本塔を巡ってみると、大きな立派なものから小型のもの、明治期のものなどさまざま。徳本上人が長野市に来ていたのは、文化13年4月9日~6月16日までなので、この期間の日付が刻まれているものは、徳本上人が直接ふれたり、目にした徳本塔になるのかな。名号塔の立て方は、まず上人に名号塔用の文字を書いてもらう→石工に掘ってもらう→上人に開眼してもらうという流れらしい。

諸国名号石之記には、徳本上人が実際に開眼した徳本塔が載っているみたいなので、少なくともこれらは上記の手順をふんで4月9日~6月16日の間に開眼してもらったのだろう。下図の■は諸国名号石之記に記載がある、または徳本上人が訪れているのに、今は徳本塔がない所(徳善院、丹生寺、かるかや山の西光寺、玄峰寺、権堂の往生寺)。紫□は記載があり、今も徳本塔があるところ。赤□は記載がなく、今も徳本塔があるところ。紫のラインは徳本上人が立ち寄った所と順路。

呼び方

お寺の方に徳本塔が境内のどこにあるか聞いたときに、”徳本さんね”、と言われた。アクセントは”とく”にあったように聞こえた。

稲里町の善導寺

期間中に徳本上人が訪れたり、泊まった場所にはほとんど徳本塔が残されている。稲里町にある善導寺もそのような場所だけど、なかったのだろうか、平成22年に新しく徳本塔を建てている。

丹波島の丹生寺

稲里町の善導寺には新しく徳本塔が建てられたので、丹波島の丹生寺だけが徳本上人が寄ったのに徳本塔がないお寺になる。行っていないので、本当にないのかは分からないが。

戸隠の徳善院

文化13年6月8日~9日に戸隠を訪れて、徳善院に宿泊したが、こちらも徳本塔はない様子。ただ、戸隠神社は江戸時代までは戸隠顕光寺というお寺だったけど、明治になり神社になっている。その際に名号塔はどうにかする必要があり、別のお寺では紀州の義賢行者の名号塔を個人墓地に移設している。同様に徳本塔もどうにかしたのだろう。

入山の徳本塔

開眼してもらった記録はなさそうだけど、善光寺から戸隠へ行く途中の入山の各地区に4基の徳本塔がある。その内1基は文化13年5月5日、2基は文化13年5月と刻まれており、いずれも徳本塔の大きさが220cm〜230㎝と似ている。名号塔用に書いてもらって、それを原本に4基作ったのかなと思ったが、文字を並べてみるとそれぞれ異なっており、6月8日~9日の戸隠訪問の途中でそれぞれ開眼してもらったのかも。

かるかや山 西光寺

諸国名号石之記に西光寺は載っており、かつては徳本上人が開眼した徳本塔があったはずだけど、今はない様子。変わりに弟子の徳住上人の六字名号碑があるが、どこからか譲り受けたものみたい。

未報告の徳本塔

諸国名号石之記に載っているのが新たに見つかるのが一番よいけど、なかなか難しそう。長野市の石造文化財は本である程度は網羅されているので、あるとしたら私有地ということになる。徳本塔の書体を使った墓碑ならまだまだありそうだけど、念仏塔とは言わないのだろう。戸隠豊岡の戸隠小学校近くの個人墓地に墓碑が1基あった。たまたま寄った稲葉の瑠璃光寺の個人墓地に墓碑ではないものが1基あったが、時代的には新しそうな感じだった。

長野市の徳本塔めぐりの記録

参考資料

生き仏が信濃にやって来た(長野市立博物館:R2.9)
徳本行者名号碑一覧表(法善寺:R1.8)
長野市の石造文化財
戸隠村の石造文化財
中条村の石造文化財
鬼無里の石仏

2021年11月13日土曜日

戸隠 瑪瑙堰の石祠探し

長野市の水道の始まりは、大正時代の初めに戸隠に水源池を作って、往生寺浄水場まで導水管を埋設して―ということのようですが、実はそれより40年くらい前の明治の初めに同じ考えで戸隠から水揚げして、善光寺裏の箱清水と芋井の鑪まで水を引いた瑪瑙堰(めのうぜき)というのがあったとのこと。

瑪瑙堰は、箱清水の庄屋の内田與右衛門らが尽力したそうで、箱清水の道路沿いに石碑と湯福神社に水神の石碑、水源池である戸隠の水揚口にも石祠があるとのこと。

この戸隠にある水揚口の石祠の場所が中々分からず―、春先からちょこちょこと探していた。
瑪瑙堰については、箱清水史料集(1975)に絵図が出ており、大まかには現在の戸隠(男鹿沢)水源池よりも上流にあること、途中で大久保の一の鳥居よりも山側を通るように描かれていることから、少なくとも標高1150mよりは高い位置にあると予想された。水揚口の石祠の写真も掲載されており、昭和47年頃に補修されて、案内の看板も設けられたようだった。
忍者村、神告げ温泉、飯綱山西登山口辺りの沢沿いの藪の中にありそう・・ということで、戸隠に立ち寄る度にこの辺りも訪問して、人目を気にしつつ道路から藪の中へ入って水揚口の石祠を探して、やっと確認できた。
人が訪れないと石祠がズレたり、傾いたりするけど、きちんとしていたので、定期的に箱清水の方が入っているのかな。

へーと思ったことがあり、飯綱山、瑪瑙山、怪無山から流れる沢が下流にいくにつれて合流して、単純に戸隠(男鹿沢)の水源池ができていると思っていたが、沢が本流に合流する前に用水用に導水されて、男鹿沢の水源池とは別の方向へ流れていっていた。沢ごとに用水権が決められているのかな。

2021年7月4日日曜日

芋井の馬頭観音あれこれ(長野市)

善光寺から戸隠神社への戸隠道(戸隠古道)を歩いていると、石造物をたくさん見かける。

庚申塔とか地蔵とか聖観音とか。その中で馬頭観音は何だかよく分からないけど、たくさん写真撮ったので、調べてまとめてみた。

芋井(いもい)というのは古くからある郷名だそうで、善光寺から戸隠神社まで全部長野市だけど、その道中の前半が芋井。本によると、芋井には少なくとも219基の馬頭観音があるそうな。

芋井で一番古い

飯綱山登山道沿いにある。十三仏にまじって現れるので、順に数えながら飯綱山を登ると石仏が14基になっちゃう。享保□□10・8、光背型、60㎝、三面二手立像。

芋井で2番目に古い

場所は軍足の隠滝不動入口。寛保3年11月、光背型、70cm、一面二手立像で、写真の左から2番目。ちなみに左の2基が馬頭観音、右の2基は聖観音。

馬の顔が立派

場所は大字入山 岩戸の道沿い。光背型、36㎝、馬の頭と観世音の文字。

三面八手立像(七曲り)

場所は七曲り出口の崖上。丸彫。七曲りの道路整備に伴い、昭和初期頃に移設されて、現在の場所に。

三面八手立像(鑪)

場所は鑪(たたら)バス停。嘉永5年、光背型、155㎝。明治初期の地図に場所を書き込むと青印の山道入口の三差路。昭和50年頃、旧道の藪にうもれていたのを現在の場所に移動させたエピソード付き。

三面八手立像(泉平)

場所は泉平。嘉永、光背型、104㎝、三面八手立像。明治初期の地図に場所を書き込むと青印の集落の入口的なところ。

三面八手立像(京田)

場所は京田。天保4、光背型、86㎝、三面八手立像。左2基、右1基も馬頭観音。明治初期の地図に場所を書き込むと青印の少し民家から外れたところ。

信濃国大地震関連(弘化四年三月二十四日)

場所は軍足。この日付に大地震があり、長野県内にこの日付を刻んだ石造物は多数あるとのこと。左の馬頭観音は弘化三年三月十四日とある。

その他

参考にした「芋井の石造文化財」には場所の情報は出ていないので、田舎だし細かい場所の情報は好まないってことなのでしょう。馬頭観音の場所は大雑把にはこんな感じ。
芋井地区は観光地ではないので、車で行こうにも駐車場はないし、路線バスを上手く活用するか、善光寺もしくは戸隠から頑張って歩いて行くしかない。当然、コンビニもないし、トイレは桜のJAのところにあるくらい。でも棚田きれいだし、歩けば石造物はたくさんあるし、素敵な石仏に出会える。

七曲りの馬頭観音はどこに③

長野市の七曲りに立派な案内板あるけど、どこにも見当たらない馬頭観音の水鉢。(→七曲りの馬頭観音についての経緯はこちら
春先に何度か見に行ったけど、結局分からずじまいで、また草木が枯れる冬待ち。そんな折、以前読んだ長野郷土史研究会の機関誌『長野』に、先生が馬頭観世音の水鉢の探しにいく話があったな~、どの号だっけと図書館に行くたびに順に読み直してやっとその記事にたどり着いた。

第95号(1981年)「生きた馬を供養した馬頭観世音」

要約すると、

・20年以上前――、著者が七曲りの馬頭観世音の水鉢を見に行き、写真を撮って芋井の行事で紹介した。
・聴講者も子供のころから馬頭観世音の水鉢を知っており、水鉢の他に丸い石のうけ鉢があり、戸隠から来た馬の脚や腹を洗う用に使っていた。その後、丸いうけ鉢は沢づたいに転がし落として、鍋石へあがるところの清水のうけ鉢にして、人用の水飲み鉢にした。
・数年後――、著者が再び馬頭観世音の水鉢を見に行ったところ、大分部は土砂に埋もれ、水鉢の縁が少し出ているだけになっていた。
・長野市立博物館が史跡公園内に建設されることになったので、できれば博物館に移設してはどうか――、で締めくられていた。

第95号その後

第95号の記事を見た地元の有志が水鉢を掘り起こし、現地保存していこうと、長野市の観光課に相談。旧道を刈り分けて遊歩道を整備。

結局、いつ頃まであったのか。

七曲りの馬頭観世音が載っている郷土資料は4つ見つけた。上記の機関誌『長野』、長野市の石造文化財(第5集:1983年(昭和58年))、戸隠古道を歩く(2002年(平成14年))、芋井の石造文化財(2007年(平成19年))。

本の内容を時系列で並べると、
 1981年(昭和56年):水鉢の写真あるも、何年も前の話。その時点で土砂に埋もれかけている。案内板の話はなし。
 1982年(昭和57年):4月に水鉢を掘り起こす。水鉢の写真あり。案内板の話はなし。
 1983年(昭和58年):水鉢の写真あり。案内板の話はなし。
 2002年(平成14年):水鉢の写真はなく、本文にも水鉢の話は出てこないが、水鉢の案内板の写真がある。
 2007年(平成19年):写真は長野市の石造文化財と同じで、水鉢の案内板は写真ではなく、文面のみ。
 2021年(令和3年) :現地には何も見当たらない。離れた箇所に別の水鉢がある。

馬頭観世音の水鉢の案内板の文面には、機関誌『長野』の記事の著者の名が出てくるので、記事の後に作成したのかなと思われる。昭和57年に地元の方が掘り起こして長野市観光課に相談した際に、「生馬供養馬頭さん」案内板と遊歩道を整備し、七曲りの道路沿いにも「馬頭観音」の看板を設置したと考えるのが、妥当な感じ。

もつ一つの水鉢

また、水鉢を見に行った際に見かけたなぞの水鉢は、機関誌『長野』の記事にでてくる馬の脚や腹を洗う用の丸いうけ鉢で、のちに鍋石へあがるところの清水のうけ鉢にしたというものっぽい。実際に鍋石への分岐の水の通り道に埋もれているし。
人里離れたところにある文化財の保護は難しい。時が経ち、世代が変われば、尚の事。今はまだ戸隠からの導水管があるので、七曲りの旧道に少し道はあるが、往生寺の水道施設が役目を終えたら、この道は手入れもしないでしょう。機関誌『長野』の著者が書いていたが、埋もれていても保護の観点からいうとそこにあることに変わりはないので、それはそれでいいのでしょうけど。

2021年6月27日日曜日

瑪瑙堰の遺構めぐり(長野水道路)

戸隠道(戸隠古道)を歩いていると、時々コンクリート製の半円型の水道施設を見かける。調べてみると、これは「接合井(せつごうせい)」と言うものらしい。
どうも長野市の水は戸隠が水源地となっており、善光寺近くの往生地の浄水場まで導水管というので水を流しており、これが長野市の水道の始まりで大正4年の話らしい。いつも水道から戸隠の水を飲んでたいのか。。

でも人口増加に合わせて水源も多様・分散化、設備が100年も前の往生地浄水場は全体の3%しか担っておらず、いずれ(もうすぐ?)役目を終えるとのこと。
前述の接合井は、戸隠の水源地から往生地浄水場までの途中に15個あるようで、長野市水道局の100年誌には、水の旅の歌があり、戸隠から長い旅路なので接合井で一休み的な内容がでていた。

何個かはすでに見ているので、残りを探してみた。昭和6年の地図には、長野水道路がでており、これを辿った。
結果、10個(赤丸)はあったが、残り5個(青色丸:戸隠水源地の敷地内、狢久保と荒安の間、鍋石、往生地、1個場所不明)と結構分からなかった。
大久保
長野カントリー
赤渋沢
大座法師池
入坂1
写真忘れ。道沿いなのでgoogleのストリートビューで見られる。

入坂2
泉平
荒安
七曲1
七曲2

地図のゼンリンや長野市水道局の本にも場所がちゃんと出ていなくて、意外と探すの大変。

2021年3月29日月曜日

三十三窟の考察④(西窟と鎖)

戸隠神社奥社裏から登山道沿いに進むと西窟(さいくつ)という岩屋がある。特に登山道沿いに案内板などがある訳でもないので、何だか分からず素通りしてしまうけど、鏡池から戸隠山を撮影して西窟全体を拡大すると、岩壁に洞穴があって木製の拝殿が見える。(→西窟の訪問記録はこちら
この西窟は上の窟、中の窟と下の窟と分かれており、下の窟には 野池一派の明治八年の石祠が1基置かれている。
鏡池から見える拝殿は中の窟にあり、姫野師らの拝殿と昭和16年の石祠(金剛蔵王)が1基、丸彫りの石造物が3体(左から役行者、秋葉三尺坊、学問行者)置かれている。
この中の窟へ行くには、岩壁に設置された鎖をたよりに10mほどの垂壁を登る。その際に鎖に全体重をかけるようになるが、この鎖は大分古そう・・・。
鎖には奉納した人が刻まれた金属板が一緒に添えられているが、「越後国 高田住・・・・文政7年」とあり、1824年ということは設置されてから200年近くということになる。金属板だけが当時のものという可能性もあるが、錆具合と色合いは鎖と同じで、しかも鎖と一体化しているので同年代製な感じ。

実は、鏡池から行ける不動窟の上にも同じような鎖が設置されている。

こちらは金属板に年代は刻まれてないが、鎖の構造は西窟のものとよく似ている。戸隠神社に奉納されている明治八年の戸隠表山御神窟之図にこの鎖は描かれているそうで、この辺りは登山道もないし、誰かが鎖の管理をしていて、近年付け替えたっていうことはちょっと考えられないので、これは当時のままと思われる。
どちらも似たような鎖ということは、やはり200年前に設置されたままのものと考えられる。何だか西窟の中の窟に登るときは鎖をたよりにしない方が良さそう。

(→西窟の訪問動画はこちら
(→鏡池奥の鎖の訪問動画はこちら