2020年9月21日月曜日

戸隠表山三十三窟⑦歓喜窟(~25窟/33窟)

戸隠山にある戸隠信仰の遺構である窟を見に行ってきた。窟は33あり、戸隠表山三十三窟と呼ばれている。(→戸隠表山三十山窟についてはこちら

戸隠ー総合学術調査報告(1971年)に下記の記載がある。
不動摩崖仏から水の涸れた沢を1時間ほど登ると聖天窟がある。
窟内には、石祠が三基あり、
 一基は、傘石、身、台石からなり、「…文久元辛酉年 七月七日」
 一基は、傘石、身の一部からなり、「明治廿年九月…」「野池久左衛門 講中」
 一基は、「本山講社中」
と刻銘がある。また窟内の発掘調査では、鎌倉時代の青銅鏡や鉄経筒が見つかった。

この聖天窟は、戸隠村の石造文化財(2004年)の歓喜窟のことと思われる。

歓喜窟


鏡池から40分ほどの不動明王摩崖仏から、沢を1時間ほど登る範囲内にあり、窟内には倒れた石祠が一基、「文久元辛酉年 七月七日」と同じ刻銘もある。ただ、その他の二基は失われてしまっている。

その他、空の飲料ボトル(ラベルなし)が1本、白いプラスチック製おちょこの欠片が1つある。

江戸末期から明治初期にかけて、荒廃していた戸隠表山三十三窟の再興に取り組んだ野池久左衛門の一派の明治8年の資料(長野市公文書館)によると、歓喜窟の祭神は陰陽二柱大神であり、文久年間に本心行者(明治6年没)がこの歓喜窟にて開道しようと、修行した?とある。

三基あったとされる石祠のうち、「本山講社中」「文久元辛酉年 七月七日」の二基は本心行者、もう一基は野池一派関連の石祠と思われる。野池一派の石祠がまだあって、祭神として陰陽二柱大神が刻銘されていたなら、この窟は野池一派のいう歓喜窟になるが、今となっては分からない。戸隠村の石造文化財(2004年)では位置関係も含めて、ここを歓喜窟としている。

ここから少し山側にも同じような地形がある。



これも窟といってもよさそうな感じだが特に人工物などはない。

無名窟

対岸の岩場基部にも窟がある。
窟内には石祠の台石のみが残されていて、歓喜窟にあったのと同型のプラスチック製おちょこの欠片が1つある。この窟は戸隠村の石造文化財(2004年)には出ていない。