2024年11月5日火曜日

京都の道標探し(山科区)

山科区で4日間ほど道標探しをしてみた。ーが、山科区では「山科の歴史探訪 5 (道標に見る山科):1994」で道標をきちんと調査されており、旧道を歩き回って偶然こんなところにもある~、なんてことはほとんどなかった。

なので、暇つぶしに調べた道標の話。

追分の「柳緑花紅」の道標

旧東海道を日本橋から京都の三条大橋へ向かって歩くと、大津市の追分で京都方面と伏見方面に分かれる。そこに
 「 みきは京みち 」「 ひたりはふしみみち 」
 「 柳緑花紅 」「 昭和廿九年三月再建 」
と刻まれた道標がある
江戸時代から有名な道標だったそうで、京都市歴史資料館のページによると都名所図会など多くの書物に柳緑花紅の道標があることが書かれているとのこと。東海道分間延絵図を切り抜くとこんな感じで、当時の人はこの道標を見て、京に向かったり、伏見へ行ったり。
そんな貴重な道標だけど、昭和二十九年の再建と刻まれているように、これはレプリカ。では、本物はどこにー?ということになる。

実は近くの摂取院に折れた痕跡のある全く同じ道標があり、そして滋賀県立安土城考古博物館にも同じ道標があって、何だかどちらがオリジナルかはっきりしない様子。下は摂取院のもの。
「京の道標(昭和41年刊)」に、著者が追分の「柳緑花紅」の道標を見に行ったところ(時期は不明)、無くなっていたという話が出てくる。市役所に捜索を依頼すると、滋賀県立産業文化館にあることが分かったが、県庁に相談しても元の場所には戻してくれなかったとのこと。

滋賀県立産業文化館は、昭和23年11月に開館して、文化財を収集し始めた。滋賀県立産業文化館報告書(1961)には、収蔵品のところに「花崗岩道しるべ 柳緑花紅」、産地:大津市藤尾、習得:昭和25年9月とあるので、開館当初に文化財として価値があると判断して、道標を持っていったと思われる。

なので、現在、安土城考古博物館にある「柳緑花紅」の道標がオリジナルの道標ということになる。では、摂取院の折れた痕跡のある「柳緑花紅」は?

「洛中洛外(1985年刊)」という佛教大学の定期刊行物である部報をまとめた本がある。その中、昭和34年5月発行の話題で、著者が道標を見に行ったところ(時期は不明)、真新しい「柳緑花紅」が建てられており、その脇にトラックがぶつかり、真っ二つになった「柳緑花紅」が横たわっていた。雨宿りのために寄った近くの摂取院で、折れた道標の供養をすすめたと書かれている。

ということはー、
昭和25年9月:初代「柳緑花紅」は滋賀県立産業文化館へ移設
(現在は滋賀県立安土城考古博物館)

昭和25年9月以降:「京の道標」の著者が訪問。
「柳緑花紅」はなく、その後県庁に戻すように依頼するも叶わず。
その後、誰かが「柳緑花紅」を再建するもトラックがぶつかり、2代目は真っ二つに。

昭和29年3月:3代目「柳緑花紅」を再建(現在建っているもの)
「洛中洛外」の著者が訪問し、摂取院に2代目「柳緑花紅」の供養を依頼。
2代目「柳緑花紅」は補修されて摂取院に移設。
現在に至る

ということですね。ちなみに3代目もちょこちょこ車にぶつかられているようです。補修しながら、いつまでも残してほしいです。
◇参考図書◇
・洛中洛外 須賀隆賢 著 仏教大学通信教育部, 1985.9
・山科の歴史探訪 5 (道標に見る山科) 山科の歴史を知る会, 1994.4
・京の道標 塩見青嵐 著 白川書院, 1966

2024年10月1日火曜日

京都市内の道標を調べる方法

京都市内をぶらぶら歩いていると、道標(みちしるべ、どうひょう)をよく目にする。道標は古いものだと刻まれた文字が読めなかったり、かすれていたりする。そんな時に地理院地図を使用して、詳細を調べる方法。

できることのイメージ

例)スマートフォンで地理院地図を開き、現在地を表示すると、中心に青●がでる。
もし近くに調べたい道標・史跡石標があれば、その■マークをクリックすると、ポップアップで名称と京都歴史資料館のいしぶみデータベースのリンクが出てきて、リンクより京都歴史資料館の詳細ページが見られる、というだけ。

ちなみにこのいしぶみデータベースを使った「いしぶみ巡るっ!」アプリがすでにあるけど、データベースは京都歴史資料館のを使っており、新規のいしぶみや移設されたものなどの管理がされてなくて、位置がおかしい道標もある。

方法

先にこのブログの下の方にあるcsvまたはgeojsonファイルをダウンロードしておく。
地理院地図のサイトを開く。右上の囲いを押していく。
フォルダマークを選択し、ファイルを選択する。
ダウンロードして保存してあったgeojsonファイルを選択して、読み込む。ファイルはこのブログの一番下にあります。
地理院地図にデータが読み込まれたあと、作図・ファイルの枠は×で消す。
地図は標準地図より、淡色地図の方が、読み込んだマークが見やすい。
これで完了。
スマートフォンで扱う際の欠点として、スマートフォンで読み込んだ場合、地理院地図のサイトから一旦離れて、メールを見たり、写真を取ったりすると、読み込んだgeojsonファイルがリセットされて、再度同じ手順で読み込み直す必要がある。

いしぶみデータベースを元に改変して作成したファイル

以下にファイルのリンクが貼ってあります。どちらも地理院地図で読み込めます。


◇geojsonファイルとcsvファイルの違い
  ・geojsonファイル:地理院地図で見ると■マークの種類分けができる。一覧で見られない。
  ・csvファイル:一覧を表で簡単に管理できる。■マークの種類分け不可。

◇geojsonファイルの■マークの分類
◇csvファイルの一覧の内訳
geojsonファイルは、京都歴史資料館のいしぶみデータベースにあったcsvファイルから勝手に作成しております。経度・緯度を10進法に修正したりしており、表示している緯度・経度が正しい保証はなく、責任は持ちません。

未報告の道標、既知の道標の修正があれば・・

以下のフォームのリンクより、ご連絡をお願いします。

道標のような石造文化財は、道の分岐にあって機能していれば、後世に引き継がれていくし、逆にその世代の人にとって何だか分からないただの石造物になってしまったら、忘れられたのと同じことで、なくてもよいものになってしまう。

少しでもそこで生活している人々が、その道標が何なのか、何を示しているのかを知る機会が増えれば、文化財として次の世代にも引き継がれていくかも。

2024年9月30日月曜日

京都の道標探し(右京区)

はて?見当たらないなー、と探していた石の道標(みちしるべ)。何となく無くなってるんじゃないかと思っていたけど、やっぱりなさそう。

探していたのは、京都市右京区嵯峨野の広沢池近くに建っていたであろう、「京都の道標(昭和41年刊)」の表紙を飾っていた道標。
「右 遍照寺山 寛朝大僧正座禅石 平家六代芝 広沢池 此附近嵯峨天皇仙洞の旧址」
「左 後宇多天皇蓮華峰寺陵 高雄道」

と刻まれていたようで、昭和4年前後に京都の三宅安兵衛が建てた1本。江戸時代からあった貴重なものっていう訳ではないが、文化財の保護にも大いに寄与するであろう京都の道標をまとめた本の表紙を飾った1本が、無くなるなんてーと残念な気持ちにはなる。
京都市の道標は、とある高校の地歴クラブ研究が有名なようで、それをまとめたものが上記の「京都の道標」。その後、同研究から「京のしるべ石(1975刊)」が出され、その資料も含めて京都市歴史資料館のホームページに史跡石標・道標をまとめた「いしぶみデータベース」としてオープンになっている。

ホームページには一覧で座標入りのcsvファイルもあったので、【道標】のみ抽出して「京都の道標」「道標で見る山科」「京都と周辺の美しい道標1・2」、ウェブ上で見たものなどを加えて、色分するとこんな感じになった。
これを見ながら、「いしぶみデータベース」「道標で見る山科」「京都と周辺の美しい道標1・2」に掲載されていない右京区の【道標】を探してみた。

いしぶみデータベースなどにない道標

嵯峨野高田町:「右 下さ 左 まつのお」。千代の古道から少し脇に入った小路の分岐。
嵯峨野天龍寺油掛町:「右 あたご道 左 」。油掛地蔵のところが整備されて置かれている。
太秦海正寺町:「左ハ まつ む」。車僧影堂のところ。これは祐天上人の字体に似ている六字名号碑の側面に刻まれている。
花園段ノ岡町:「右 あたご 左 うづまさ」。道しるべ地蔵という名前だそうです。
西院西貝川町:「右 大原 花の」。一段上がった一角に置かれている。
その他、高山寺の鷹司兼平公墓道の道標や、峠の石仏などで写真を見かける中山中川などもあり、私有地にもいくつか見かけた。特に嵐山近辺のお店の前には道標がちらほらあるが、本来は道の分岐に位置して案内するのが道標の役割であり、お店前のはイミテーションなのかもしれないがこちらでは判断がつかない。

太秦海正寺町辺りの個人宅内にも道標が置かれていた。普通の民家であり、オシャレ道標には見えず、道路拡張の際に保護したのかもしれないが、よく分からない。こういう個人宅内の道標はたくさんあるのかもしれない。

京のしるべ石に掲載されている三宅安兵衛道標

広沢池の周辺には、多くの三宅安兵衛の道標があったようだけど、今は見当たらない。京のしるべ(1975刊)には、上記の京都の道標の表紙の他に3本の詳細が掲載されている。
池の西南端の辻:現在は遍照寺内に移設
「右 真言宗広沢流根元 遍照寺 あたご 車折道」
「成田と同木の霊像 寒月や利剣も凄き赤不動 双湖庵野人」

嵯峨道と分かれて池の西畔に沿う道:所在不明
「嵯峨離宮 釣殿旧地 観音島 高○」
「名月や池半面と山の影 桂陰」

児神社西、大沢池、北嵯峨への分岐道:所在不明
「右 北嵯峨 大沢池 大覚寺道」
この横には「左 あたご道」と刻まれた寛保二年(1742)の道標があったそうで、これは遍照寺内に移設されている。

むこうまち歴史サークルの「三宅安兵衛遺志碑(2022刊)」によると、このうち2つは木の下陰に掲載されているという、203蓮華峰寺高雄道の碑、211嵯峨離宮址の碑なのかな。

2024年8月17日土曜日

高山寺の墓道の石碑の話

神護寺、西明寺を巡って、最後に高山寺に向かう途中、清滝川を越える。ここに架かる白雲橋のたもとに、墓道を案内する石碑がある。正面に「鷹司兼平公墓道」、側面に「明治十七年六月」とあるこの石碑は-。
墓道の案内なので、当然その先にはお墓がある。すぐ先で斜面を下って清滝川の左岸を進む。

一段上がると石造物。江戸末期の慧友上人の三重宝塔で、慧友上人は高山寺の文書保存に尽力して、1831年に明恵上人の600年の法要、1844年に墓道案内の主である鷹司兼平公の550年法要、鷹司家墓地整備などもしたとのこと。

もう一段上がると墓所でたくさんの石造物がある。特に大きな三基は、左から高山寺殿(近衛家基公)、昭念院殿(鷹司兼平公)、岡屋殿(近衛兼経公)だそう。

3人とも関白みたいなのに、なぜ墓道の石碑は近衛家墓道、鷹司家墓道ではなくて、鷹司兼平公墓道なのか。慧友上人の鷹司家墓地整備の際に銅版墓誌が2つ出てきたそうで、真ん中から鷹司兼平公の18cm×12cmサイズの墓誌と御骨壷なども一緒に、右端の基からは近衛兼経公の少し小形の16cm×7cmサイズの墓誌とのこと。

近衛兼経公の墓所は宇治市にもあるようなので、明確に墓碑と御骨壷があった鷹司兼平公の墓道としたのかもしれないし、知識が足りないが鷹司家の祖である鷹司兼平公とした方が一般に受けがよかったのか。。

そもそも、なぜ明治17年に墓道の石碑を建てたのか。

江戸期末の慧友上人の後に証成上人という名前が出てくる。明治維新の頃より高山寺にいたが、廃仏毀釈で厳しい時代。さらに明治14年に類焼により山門と三尊院などが焼け、住む住居にも苦労した。

◇火災前である明治14年4月25日までの写真
・山門(仁王門)(明治5年)
・三尊院(明治5年)
・橋と三尊院1
・橋と三尊院2(明治14年4月刊に掲載)
・橋と三尊院?(同じシリーズの三条大橋が明治14~29年の間のため、明治22年以降で石水院かも。ただ橋周辺が火元なのに、上記の写真と同じ橋や樹木が見られることを考えると、明治14年4月の火災前かも。)
*撮影鑑2、矢野家写真資料(京都府立京都学・歴彩館)など

証成上人は法隆寺が宝物を献納することで伽藍を修理した例に倣い、明治17年に鳥獣戯画の献納を東京博物本局へ願い出たこともあったとのこと(府知事不許可)。何とかお金を工面し、明治22年に三尊院跡に石水院を移建して、復興に努めたそうで。

そんな苦しい時期である明治17年に建てられた墓道の石碑。建てられた場所は、高山寺に向かう途中、清滝川に架かる橋のたもと。高山寺の参道はまだ先だけど、当時はこの橋が高山寺の境目的な意味で、火災前は橋越しに三尊院が見えており、後にその場所に石水院を移建して、同じように見える風景は写真/絵葉書の定番の構図のようだ。

◇火災後の写真
・橋と石碑(明治34年頃)
・橋と石碑(明治34年頃)
・橋と石碑と石水院(明治36年)*12頁
・橋と石碑と石水院(明治43年頃)
・橋(時期不明)
・橋(時期不明)
*近畿名勝写真帖(国立国会図書館NDLギャラリー)など

そもそも、石碑を証成上人や高山寺の関係者が建てたかどうかも分からないけど、勝手な推測をすると、復興に取り組む最中に山門、三尊院が焼けて住居にも困り、寺の永続性を疑問視されていた。

厳しい状況の中で近衛家、鷹司家ゆかりの墓所があることを示すことが、対外的に寄付や府知事への陳情で何かプラスになったのかもしれない。または単に梅ヶ畑の村人が誇りに思って建てただけかもしれない。。

かつて高山寺への橋があった所は、今は福ヶ谷林道が通り、墓道の石碑は隅っこに佇むのみ。清滝川にかつて架かっていたであろう橋越しに石水院を見ても、杉の木が大きくなって建物は見えない。

◇参考資料
 ・高山寺経蔵の形成と伝承(2020)
 ・高山寺の金銅墓誌について(1952)

2024年7月14日日曜日

神護寺絵図の「巌屋」探し

寛喜二年(1230)に寺領を示す目的で作成された神護寺領牓示絵図。伽藍の脇に「巌屋」というのが描かれており、見ようによっては洞穴に建てられた建物のようにも見える。

現在は存在しないこの建物は何なのか。。資料と現地で確認してみた。

神護寺のある高雄まで行き、清滝川に架かる橋を渡り、階段をたくさん登るとやっと楼門。さらに文覚上人墓まで行くとただの登山で、夏向きではないけど参拝者は少なくて、のんびりできる。拝観料は1000円。

神護寺の伽藍

神護寺のはじまりは、和気清麻呂公が愛宕五坊の一つとして高雄山寺を創建したところから。その後、荒廃したが文覚上人が後白河法皇の勅許を得て、鎌倉期には往年以上の復興を見せた。神護寺絵図はその頃の伽藍の様子を描いたものになるとのこと。
この絵図の伽藍の下側、清滝川側に「巌屋」というのが描かれている。
絵図の時代からは100年以上あとの南北朝時代になるが、神護寺略記(大日本仏教全書119 P68)には「巌屋窟:奉安置不動明王、大師経行霊窟也、」とある。

その後、伽藍は応仁の乱で焼失、または天文十六年(1547)に焼失。元和二年(1623)に楼門、金堂、五大堂、鐘楼を再興。この再興前後のどの時期の伽藍を描いたのかは分からないが、高雄山神□□伽藍之図(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブより)が伝わっており、神護寺領牓示絵図と同じような伽藍が描かれ、左隅に「岩屋」というのがある。

この伽藍之図の描かれた時期は、神護寺展のリストでは室町時代(15世紀)となっている。「巌屋」と「岩屋」が同一の建物とは限らないが、神護寺絵図では洞穴のようなところにある建物だったが、伽藍之図では清滝川の側の崖にある建物のように見える。
江戸時代頃の資料からは、猿窟というのを目にするようになる。出典元は、林羅山の高雄山神護寺募縁記(元和8年(1622))のようで、毘沙門堂の南方の窟内にて、伝教大師が猿から山芋と閼伽水をもらう話みたい(羅山林先生文集 巻1 P100)。同じものなのかもしれないが、ここでは絵図と略記にある「巌屋」を探すということにする。

その後の伽藍配置が分かる資料として、明治四年(1871)寺地画図(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブより)がある。ここには「巌屋」「岩屋」に準ずるものは見当たらない。
昭和十年(1935)に金堂、多宝塔が新築され、元々あった金堂は毘沙門堂となり、今に至る。もちろん、「巌屋」「岩屋」という建物は今はない。

調査報告より確認

当然のことながら、神護寺なので境内の調査報告はある。背後の頂上部にかつて高雄城があり、その城跡などを調査したものが下図(京都府教育委員会文化財保護課HP高雄城跡より)。
神護寺絵図のように洞穴に建つ「巌屋」だとすると、図下側に流れる清滝川と等高線が詰まった崖のどこかに洞穴っぽいものがあって-、ということになる。

伽藍之図のように崖際に建つ「岩屋」だとすると、やはり等高線が詰まった崖のどこかに石垣マークがあれば、そこかもしれない。残念ながら、この調査報告からではよく分からないが、該当するものはなさそう。

現地で確認

現地で境内周辺をゴソゴソという訳にもいかないので、清滝川沿いの林道より岩壁を観察。
神護寺の地蔵堂の直下は大岩壁になっており、切り立っている。冬でないと全体像はよく分からないが、建物を建てられるような傾斜ではなかった。

境内の地蔵堂の側にあるかわらけ投げの崖上からも見てみた。かわらけ投げは200円。
結局、よく分からないなーという感じ。

参考資料
◇絵図のコスモロジー 上・下巻 葛川絵図研究会編
◇中世荘園絵図大成 河出書房新社
◇京都府中世城館跡調査報告書 第3冊
◇日本荘園絵図聚影 釈文編二 中世一
◇高山寺・善妙寺寺領牓示絵図
◇平安初期神護寺の伽藍構成とその配置
◇史料京都の歴史14

2024年6月19日水曜日

高山寺絵図のもの探し③

寛喜二年(1230)に寺領を示す目的で作成された神護寺領牓示絵図、高山寺寺領牓示絵図、主殿寮御領小野山与神護寺領堺相論絵図の三幅の絵図。いずれも重要文化財になっている。

その中の高山寺絵図に描かれた「沓石」という岩は、現地の場所を特定されていないので探してみた。(高山寺絵図については こちら

「沓石」は、高山寺絵図の「栂尾高峯」の北側にあり、西側の谷「机谷」、東側の谷「葦谷」に挟まれた尾根上に、寺領の境目を示す赤線の内側に描かれている。

「栂尾高峯」は今の峰山と思われ、その辺りの尾根を探すかたちとなる。絵図について詳しい「絵図のコスモロジー」「中世荘園絵図大成」では、その辺りにあると推定しているが場所は不明としている。
「葦谷」はあしだにと読むのだろう。本では峰山の東側の谷を現地比定している。「京都中川の北山林業景観調査報告書(2019刊)」とという本にでてくる江戸時代の絵図にもあし谷の記載があり、現在の岩尾谷川辺りとしており、同様の場所と思われる。

「机谷」はつくえだにと読むのだろうか。現在も峰山の西側に行衛谷(ゆくえだに)という地名があるため、そこを現地比定したと思われる。

沓石

そもそも昭文社の地図には峰山北側の尾根上に大岩という記載があり、またYAMAPでもひときわ目立つ大岩があることが載っている。知らず知らずの内に現在でもランドマークとして機能している大岩が、峰山の北側の550m地点に少なくとも1つは存在していることになる。

実際に峰山から602mピーク、556mピーク、松尾峠へと続く尾根上、602mピークから549mピーク、420mピーク、中川中山の401mピークへ続く尾根上、峰山の東側の岩尾谷川、峰山の西側の行衛谷を探してみたが、絵図に描かれたものと形が似ていて、場所もおかしくない岩は、峰山の北側の550m地点の大岩しかなかった。岩に文字などは刻まれていない。
葦谷にあった岩。違うと思われる。
これが沓石ですと明確に示せる根拠は何もないが、この大岩が「沓石」だろうと思われる。