2024年9月30日月曜日

京都の道標探し(右京区)

はて?見当たらないなー、と探していた石の道標(みちしるべ)。何となく無くなってるんじゃないかと思っていたけど、やっぱりなさそう。

探していたのは、京都市右京区嵯峨野の広沢池近くに建っていたであろう、「京都の道標(昭和41年刊)」の表紙を飾っていた道標。
「右 遍照寺山 寛朝大僧正座禅石 平家六代芝 広沢池 此附近嵯峨天皇仙洞の旧址」
「左 後宇多天皇蓮華峰寺陵 高雄道」

と刻まれていたようで、昭和4年前後に京都の三宅安兵衛が建てた1本。江戸時代からあった貴重なものっていう訳ではないが、文化財の保護にも大いに寄与するであろう京都の道標をまとめた本の表紙を飾った1本が、無くなるなんてーと残念な気持ちにはなる。
京都市の道標は、とある高校の地歴クラブ研究が有名なようで、それをまとめたものが上記の「京都の道標」。その後、同研究から「京のしるべ石(1975刊)」が出され、その資料も含めて京都市歴史資料館のホームページに史跡石標・道標をまとめた「いしぶみデータベース」としてオープンになっている。

ホームページには一覧で座標入りのcsvファイルもあったので、【道標】のみ抽出して「京都の道標」「道標で見る山科」「京都と周辺の美しい道標1・2」、ウェブ上で見たものなどを加えて、色分するとこんな感じになった。
これを見ながら、「いしぶみデータベース」「道標で見る山科」「京都と周辺の美しい道標1・2」に掲載されていない右京区の【道標】を探してみた。

いしぶみデータベースなどにない道標

嵯峨野高田町:「右 下さ 左 まつのお」。千代の古道から少し脇に入った小路の分岐。
嵯峨野天龍寺油掛町:「右 あたご道 左 」。油掛地蔵のところが整備されて置かれている。
太秦海正寺町:「左ハ まつ む」。車僧影堂のところ。これは祐天上人の字体に似ている六字名号碑の側面に刻まれている。
花園段ノ岡町:「右 あたご 左 うづまさ」。道しるべ地蔵という名前だそうです。
西院西貝川町:「右 大原 花の」。一段上がった一角に置かれている。
その他、高山寺の鷹司兼平公墓道の道標や、峠の石仏などで写真を見かける中山中川などもあり、私有地にもいくつか見かけた。特に嵐山近辺のお店の前には道標がちらほらあるが、本来は道の分岐に位置して案内するのが道標の役割であり、お店前のはイミテーションなのかもしれないがこちらでは判断がつかない。

太秦海正寺町辺りの個人宅内にも道標が置かれていた。普通の民家であり、オシャレ道標には見えず、道路拡張の際に保護したのかもしれないが、よく分からない。こういう個人宅内の道標はたくさんあるのかもしれない。

京のしるべ石に掲載されている三宅安兵衛道標

広沢池の周辺には、多くの三宅安兵衛の道標があったようだけど、今は見当たらない。京のしるべ(1975刊)には、上記の京都の道標の表紙の他に3本の詳細が掲載されている。
池の西南端の辻:現在は遍照寺内に移設
「右 真言宗広沢流根元 遍照寺 あたご 車折道」
「成田と同木の霊像 寒月や利剣も凄き赤不動 双湖庵野人」

嵯峨道と分かれて池の西畔に沿う道:所在不明
「嵯峨離宮 釣殿旧地 観音島 高○」
「名月や池半面と山の影 桂陰」

児神社西、大沢池、北嵯峨への分岐道:所在不明
「右 北嵯峨 大沢池 大覚寺道」
この横には「左 あたご道」と刻まれた寛保二年(1742)の道標があったそうで、これは遍照寺内に移設されている。

むこうまち歴史サークルの「三宅安兵衛遺志碑(2022刊)」によると、このうち2つは木の下陰に掲載されているという、203蓮華峰寺高雄道の碑、211嵯峨離宮址の碑なのかな。