2024年1月19日金曜日

高山寺絵図のもの探し②

寛喜二年(1230)に寺領を示す目的で作成された神護寺領牓示絵図、高山寺寺領牓示絵図、主殿寮御領小野山与神護寺領堺相論絵図の三幅の絵図。いずれも重要文化財になっている。

その中の高山寺絵図に描かれた「瀧尾離尾」という岩場は、現地の場所を特定されていないので探してみた。

「瀧尾離尾」は、高山寺絵図の「毗沙門瀧」の南側にあり、朱色で引かれた高山寺の境界線上に位置している。

さらに南に行くと「瀧尾山」があって、名前の通りその離れた場所にある尾根ということなのかも。絵図については「絵図のコスモロジー(1988刊)」に詳しく書かれているが、この「瀧尾離尾」「瀧尾山」については場所が分からないとのこと。

とりあえず、今も同じ名称の「高山寺」「菩提瀧」と、呼び名は変わっている「三日坂(今は御経坂)」、あった場所がだいたいわかっている「善妙寺」を地形図に書き足す。

これに旧梅ヶ畑村の境界線(朱点線)を書き足す。旧梅ヶ畑村の村堺(朱点線)が鎌倉時代の高山寺の寺堺をずっと引き継いでいるとは限らないが、少なくとも菩提の滝はずっとその境界となっていて、峰山の北602mピークに至る葦谷-清滝川-菩提川を結んだ線(朱色)もおそらく引き継がれている。

ついでに遺跡として報告がある箇所も入れるとこんな感じになる。遺跡はいずれも平安時代頃とのことで、絵図の時代よりはさらに遡り、仁和寺関連施設かなどは不明。

要は今の毘沙門谷を登って行き、岩場の場所を探して地形図上にマークしていけば、その中のどれかが「瀧尾離尾」ということになる。

毘沙門谷の遡行

まずは毘沙門谷を遡行する。ルートは高山寺側の駐車場に停めて、国道を歩いて行き、毘沙門谷に入り、山中をうろうろする。大きな滝が2つあり、どちらかが「毗沙門瀧」でしょう。

その先、2つ目の滝から地形図の範囲で400mくらいの間に岩場が出てくる。岩場はそこだけ。その後は薄暗い沢が続き、いずれ尾根上に出てしまう。

瀧尾離尾

ということで、2つ目の滝から地形図の範囲で400mくらいの間の岩場なのかもしれないが、示せる根拠もなく分からない。

勝手に推定するとこんな感じになった。旧梅ヶ畑村の村堺(朱点線)が鎌倉時代の高山寺の寺堺を引き継いでいるとは限らないが、今回の岩場はたまたま位置が境と重なった。

現地の状況以外に示せる根拠は何もないし、図書館でこれに関する別の記載が見つけられれば、進展もあるけどそれは難しそう。

2023年12月5日火曜日

高山寺絵図のもの探し①

寛喜二年(1230)に寺領を示す目的で作成された神護寺領牓示絵図、高山寺寺領牓示絵図、主殿寮御領小野山与神護寺領堺相論絵図の三幅の絵図。いずれも重要文化財になっている。

絵図の研究はたくさんされているが、描かれた滝や岩場などの地物の中には現地比定されていないものがあり、探してみることに意味があるかもしれない。

絵図の中で特にきれいなのが高山寺絵図。高山寺は紅葉で有名な京都の栂尾にあり、夢記の明恵上人、石水院や鳥獣戯画で有名なお寺。

絵図は高山寺とその麓を流れる「清瀧川」とを中心に、背後の「栂尾高峯」などを描き、山々や特徴ある岩、滝などを赤線で囲って寺領を示している。

「絵図のコスモロジー 上・下巻(葛川絵図研究会編)」「中世荘園絵図大成(河出書房新社)」では、絵図に描かれた山の稜線や滝などが現在のどこになるのかを現地調査して、赤線の寺領範囲を推定している。「清瀧川」は今も「清滝川」であり、「神護寺」「高山寺」も当然同じ場所にある。

高山寺絵図の特定されているもの:「菩提瀧」「毗沙門瀧」

「菩提瀧」は右端にやたらと大きく描かれている。今も中川に菩提の滝というのがあり、観光名所の一つとして案内板が設置されている。

絵図のように大きな岩山から流れ落ちる滝ではなく、10ml強の沢の中腹にある滝。

「毗沙門瀧」は、高山寺絵図に文字だけ記載されている。今の毘沙門谷にある滝と思われ、中腹にある2つ滝のうちのどちらかでいずれもそこまで大きい滝ではないが、少なくとも「菩提瀧」よりは大きい。

「毗沙門瀧」は寺領内にあり、境界の目印でもないため、描く必要がなかったと思われる。

三幅の絵図から現地比定されている高山寺絵図「菩提瀧」「毗沙門瀧」、小野山絵図「両岩」「雲心寺舊跡壇」などを書き足すとこんな感じ。

高山寺絵図の特定できていないもの

一方で「絵図のコスモロジー」「中世荘園絵図大成」で特定されていないものとして、高山寺絵図中の「沓石」「瀧尾離尾」「二子石」がある。

これは自然の地物なので、現在も見た目が似たものが山中にあるかもしれない。推定される場所は本に書かれているが、余り興味がなかったのか、現地調査などはしていない様子。

図の点線の円周辺に「沓石」「瀧尾離尾」「二子石」があるかもしれないが、見つけてもそれだと証明するのは難しいでしょう。

2023年8月15日火曜日

絵図に描かれたものを探すこと

図書館で古い絵図を探すと、寺社絵図集、または荘園絵図集というのが見られる。江戸時代の国絵図というのもあるけど、範囲が大きすぎて、絵図を頼りに描かれたものを現地と見比べて-、と楽しむには寺社・荘園絵図が丁度よい。

寺社絵図には、当時のお寺、神社の敷地内の建物と少し周りの様子が描かれていて、荘園絵図だともう少し広範囲に、特に境界線を明確にするために山や川、岩、滝なども描いていたりする。

小野山絵図を例に:描かれたものを特定すること

その荘園絵図を見ていると、縮尺がおかしかったり、特定のものを強調しすぎていたり、何だか意味が分からないことが多い。古い絵図だから-、とかたずけるのは簡単だけど、その意図を考えることは意味があるらしい。

「絵図のコスモロジー(1987刊)」には、神護寺絵図・高山寺絵図の作成過程という話がある。京都の紅葉の名所である三尾の神護寺と高山寺と村々との鎌倉期の寺領争いで描かれた絵図らしい。

正しく記載すると、寛喜二年(1230)に寺領を示す目的で作成された神護寺領牓示絵図、高山寺寺領牓示絵図、主殿寮御領小野山与神護寺領堺相論絵図の三幅の絵図とのこと(写真は小野山絵図)。

絵図の真ん中に「両岩」という大きな岩が描かれている。お寺の建物より大きいが、境界の目印として強調するために大きくしているみたい。

「絵図のコスモロジー」ではこの絵と同じような岩を現地へ探しにいっており、明らかに見た目からこれだという大岩を見つけている。高さが10m以上あり、周りに似たような岩はなく、地元では山の神として信仰の対象になっているみたい。

その他にも小野山絵図には、「雲心寺舊跡壇」という雛壇状に4段と3段の平坦面が描かれている。実際に絵図と同じような平地が階段状になった地形が愛宕山の東側の山中で見つかり、令和4年度も調査がされているみたい。

絵という直感的に分かるものをヒントに、山中でかつての遺構が見つかるというのはシンプルに面白い。

地図に位置を書き込むとこんな感じ。寺社絵図にしても、荘園絵図にしても当然研究はされているだろうけど、描かれた境界の大岩や滝を特定することにはそんなに熱心ではないだろう。

それが山の中だとやっていないことも多いだろうし、令和になってからも登山者の報告がきっかけで愛宕山の北側の山中の遺跡を調査したことが、京都市内埋蔵文化財調査報告書に載っている。

ちなみに遺跡ならまだしも、絵図に描かれた大岩や滝を見つけたとして証明するのは難しく、おそらくこれだろうというだけで終わる。

ただ、例に上げた落書きみたいにも見える小野山絵図でも重要文化財に指定されていて、絵図の意図を読み取って描かれたものを特定しようとすることに少しは意味はあるような気もする。

参考資料

◇絵図のコスモロジー 上・下巻 葛川絵図研究会編

◇中世荘園絵図大成 河出書房新社

◇京都・愛宕山中の遺跡--雲心寺跡の発見 佛敎藝術學會編

◇京都中川の北山林業景観調査報告書

◇史料京都の歴史 京都市編

◇四至牓示から境界線へ

京都市内埋蔵文化財調査報告書(R4詳細分布調査報告)

2022年12月1日木曜日

葛川明王院の絵図の三ノ滝

滋賀県大津市にある葛川明王院は、比叡山無動寺の奥院。貞観元年(859年)に相応和尚が明王谷の三ノ滝で修行をしていると不動明王が現れ、それに抱きついたところ桂の霊木だった。そこから木像を彫り、安置したのが始まりとのこと。

文保2年(1318年)に描かれた葛川明王院の絵図には、中央を流れる川の上部に朱色で「三瀧」と書かれた滝が描かれている。
「葛川明王院:葛川谷の歴史と環境(1960)」によると、相応和尚伝では一ノ滝で千手観音を感得し、二ノ滝で毘沙門天が顕れ、三ノ滝に籠ってはじめて不動明王を感得した。その三尊を桂の霊木で彫ったのが、いまの明王院の三尊であるとのこと。

また、霊木から三体の不動明王を彫り、無動寺、葛川明王院、伊崎寺に安置したという別の説話もあり、その奥に懸る十九の滝は不動明王眷属の十九童子にかたどられ、渓谷は神聖視されてきたとのこと。

葛川明王院を起点として、一ノ滝、二ノ滝、三ノ滝と不動明王に関わる説話がある明王谷、それに続き十九童子になぞらえた十九の滝がある奥ノ深谷を遡行してみた。百名谷として知られているルートなので、当然、新規性は何もない。

明王谷・奥ノ深谷の遡行

林道を5分くらい進むと明王谷と接するのでそこで入渓。百名谷や古い登山案内だと一ノ滝の記載があるが、遡行していても一ノ滝らしきものは見当たらない。堰堤が作られており、この辺りにあったのでしょうか。。
少し進むと大きな釜をもった二ノ滝。
ここは左岸の草付きを丁寧に巻くと、濡れずに抜けられる。

三ノ滝

両岸が狭まってゴルジュ様になってくる先に大きな滝。この三ノ滝で相応和尚が厳しい修行をしていると、滝つぼに不動明王が現れ、飛び込んで抱きついたところ桂の霊木であったとのこと。
三ノ滝を過ぎると奥ノ深谷となる。ほとんどの滝が巻けて、きれいな渓相と滝が続く。

帰りに葛川明王院に立ち寄ってみた。今も天台宗回峰行者の参籠の霊場であり、7月には行者が坂本から花折峠を越えて葛川に入り、5日間修行をするそうで、その間に相応和尚の三ノ滝の言い伝えにちなんだ太鼓廻しも行われるそうです。

・絵図に描かれたものを探すこと → こちら
・葛川明王院の絵図 → リスト( ①秘所滝 )
・高山寺絵図のもの探し → リスト( ①概要 ②瀧尾離尾 ③沓石 )

2022年11月30日水曜日

葛川明王院の絵図の秘所滝

葛川明王院の絵図は、葛川与伊香立庄相論絵図というそうで、葛川と伊香立庄との境界争いのために描かれた。文保元年(1317年)に作成された下絵みたいな絵図と文保2年(1318年)に作成された彩色のものがある。絵図の解釈については、「絵図のコスモロジー」という本に詳しい。

葛川明王院は滋賀県大津市にあり、比叡山にある延暦寺東塔無動寺の奥の院とのこと。その古い絵図。
絵図の右側には全体に木々が描かれ、中心には朱色で「秘所滝」と記されてある。この木々は、前年に描かれた下絵みたいな絵図にはなかったものだそうで、境界を主張する際にポッカリと何もない空間があると不都合だったのか、描き足されたとのこと。

この葛川明王院の絵図に描かれた「秘所滝」を見に行った。絵図のコスモロジーには、秘所滝があると思われるサカ谷を遡行して、確かに滝があることを確認したと記載されており、やっていることに新規性はない。

サカ谷の遡行

サカ谷の出合いに崩坂改修記念碑の石造物と案内板がある。絵図の「秘所滝」がある木々の右側に「崩坂西ノ横尾」、登った峠に「クツレ坂ノタウケ堂」と朱色でかかれており、「秘所滝」がある谷がサカ谷である根拠の一つになっている。
崩坂を登ってみると薄っすらとつづら折りの踏み跡があり、かつて道があったようにも見えた。峠まで登ってみたが、石造物などは何もなく、お堂跡なども見当たらなかった。

秘所滝

サカ谷には滝と言えるものは一つしかなかった。二段になっており、一段目は何でもない8mほどの滝だが、二段目の滝はトイ状で滝つぼの周囲を岩場で囲われており、少し神秘的な滝に感じた。
そのまま遡行を続けると、何もなく次第に水量も減り、稜線に至る。隣のヘク谷などは沢登りの対象となっているみたいだけど、サカ谷は面白味に欠けるためか、余り聞かない。「秘所滝」と思われる滝を見に行くだけでも、価値はあるような気はする。

・絵図に描かれたものを探すこと → こちら
・葛川明王院の絵図 → リスト( ②三ノ滝 )
・高山寺絵図のもの探し → リスト( ①概要 ②瀧尾離尾 ③沓石 )