2021年7月4日日曜日

芋井の馬頭観音あれこれ(長野市)

善光寺から戸隠神社への戸隠道(戸隠古道)を歩いていると、石造物をたくさん見かける。

庚申塔とか地蔵とか聖観音とか。その中で馬頭観音は何だかよく分からないけど、たくさん写真撮ったので、調べてまとめてみた。

芋井(いもい)というのは古くからある郷名だそうで、善光寺から戸隠神社まで全部長野市だけど、その道中の前半が芋井。本によると、芋井には少なくとも219基の馬頭観音があるそうな。

芋井で一番古い

飯綱山登山道沿いにある。十三仏にまじって現れるので、順に数えながら飯綱山を登ると石仏が14基になっちゃう。享保□□10・8、光背型、60㎝、三面二手立像。

芋井で2番目に古い

場所は軍足の隠滝不動入口。寛保3年11月、光背型、70cm、一面二手立像で、写真の左から2番目。ちなみに左の2基が馬頭観音、右の2基は聖観音。

馬の顔が立派

場所は大字入山 岩戸の道沿い。光背型、36㎝、馬の頭と観世音の文字。

三面八手立像(七曲り)

場所は七曲り出口の崖上。丸彫。七曲りの道路整備に伴い、昭和初期頃に移設されて、現在の場所に。

三面八手立像(鑪)

場所は鑪(たたら)バス停。嘉永5年、光背型、155㎝。明治初期の地図に場所を書き込むと青印の山道入口の三差路。昭和50年頃、旧道の藪にうもれていたのを現在の場所に移動させたエピソード付き。

三面八手立像(泉平)

場所は泉平。嘉永、光背型、104㎝、三面八手立像。明治初期の地図に場所を書き込むと青印の集落の入口的なところ。

三面八手立像(京田)

場所は京田。天保4、光背型、86㎝、三面八手立像。左2基、右1基も馬頭観音。明治初期の地図に場所を書き込むと青印の少し民家から外れたところ。

信濃国大地震関連(弘化四年三月二十四日)

場所は軍足。この日付に大地震があり、長野県内にこの日付を刻んだ石造物は多数あるとのこと。左の馬頭観音は弘化三年三月十四日とある。

その他

参考にした「芋井の石造文化財」には場所の情報は出ていないので、田舎だし細かい場所の情報は好まないってことなのでしょう。馬頭観音の場所は大雑把にはこんな感じ。
芋井地区は観光地ではないので、車で行こうにも駐車場はないし、路線バスを上手く活用するか、善光寺もしくは戸隠から頑張って歩いて行くしかない。当然、コンビニもないし、トイレは桜のJAのところにあるくらい。でも棚田きれいだし、歩けば石造物はたくさんあるし、素敵な石仏に出会える。

七曲りの馬頭観音はどこに③

長野市の七曲りに立派な案内板あるけど、どこにも見当たらない馬頭観音の水鉢。(→七曲りの馬頭観音についての経緯はこちら
春先に何度か見に行ったけど、結局分からずじまいで、また草木が枯れる冬待ち。そんな折、以前読んだ長野郷土史研究会の機関誌『長野』に、先生が馬頭観世音の水鉢の探しにいく話があったな~、どの号だっけと図書館に行くたびに順に読み直してやっとその記事にたどり着いた。

第95号(1981年)「生きた馬を供養した馬頭観世音」

要約すると、

・20年以上前――、著者が七曲りの馬頭観世音の水鉢を見に行き、写真を撮って芋井の行事で紹介した。
・聴講者も子供のころから馬頭観世音の水鉢を知っており、水鉢の他に丸い石のうけ鉢があり、戸隠から来た馬の脚や腹を洗う用に使っていた。その後、丸いうけ鉢は沢づたいに転がし落として、鍋石へあがるところの清水のうけ鉢にして、人用の水飲み鉢にした。
・数年後――、著者が再び馬頭観世音の水鉢を見に行ったところ、大分部は土砂に埋もれ、水鉢の縁が少し出ているだけになっていた。
・長野市立博物館が史跡公園内に建設されることになったので、できれば博物館に移設してはどうか――、で締めくられていた。

第95号その後

第95号の記事を見た地元の有志が水鉢を掘り起こし、現地保存していこうと、長野市の観光課に相談。旧道を刈り分けて遊歩道を整備。

結局、いつ頃まであったのか。

七曲りの馬頭観世音が載っている郷土資料は4つ見つけた。上記の機関誌『長野』、長野市の石造文化財(第5集:1983年(昭和58年))、戸隠古道を歩く(2002年(平成14年))、芋井の石造文化財(2007年(平成19年))。

本の内容を時系列で並べると、
 1981年(昭和56年):水鉢の写真あるも、何年も前の話。その時点で土砂に埋もれかけている。案内板の話はなし。
 1982年(昭和57年):4月に水鉢を掘り起こす。水鉢の写真あり。案内板の話はなし。
 1983年(昭和58年):水鉢の写真あり。案内板の話はなし。
 2002年(平成14年):水鉢の写真はなく、本文にも水鉢の話は出てこないが、水鉢の案内板の写真がある。
 2007年(平成19年):写真は長野市の石造文化財と同じで、水鉢の案内板は写真ではなく、文面のみ。
 2021年(令和3年) :現地には何も見当たらない。離れた箇所に別の水鉢がある。

馬頭観世音の水鉢の案内板の文面には、機関誌『長野』の記事の著者の名が出てくるので、記事の後に作成したのかなと思われる。昭和57年に地元の方が掘り起こして長野市観光課に相談した際に、「生馬供養馬頭さん」案内板と遊歩道を整備し、七曲りの道路沿いにも「馬頭観音」の看板を設置したと考えるのが、妥当な感じ。

もつ一つの水鉢

また、水鉢を見に行った際に見かけたなぞの水鉢は、機関誌『長野』の記事にでてくる馬の脚や腹を洗う用の丸いうけ鉢で、のちに鍋石へあがるところの清水のうけ鉢にしたというものっぽい。実際に鍋石への分岐の水の通り道に埋もれているし。
人里離れたところにある文化財の保護は難しい。時が経ち、世代が変われば、尚の事。今はまだ戸隠からの導水管があるので、七曲りの旧道に少し道はあるが、往生寺の水道施設が役目を終えたら、この道は手入れもしないでしょう。機関誌『長野』の著者が書いていたが、埋もれていても保護の観点からいうとそこにあることに変わりはないので、それはそれでいいのでしょうけど。