2025年9月15日月曜日

鵜川の棚田の分水

琵琶湖の西側の比良山地では中世より荘園間、村々の間で境界争いがあったようで、絵図がたくさん残されている。その中の「鵜川⼭境相論裁許絵図写(享保元年(1716))」が琵琶湖博物館の企画で展示されていたので見てきた。

前々から絵図に不思議な場所が描かれていて気になっていた。現在の鵜川林道が椿谷を横切る辺りの沢の分岐。ひとつの流れがここで分岐して、2つの流れになっている。地形図で見ると、分かれた沢はコルを越えて、絵図の通りだと下流の沢とつながることになる。

絵図ではこの沢(川)の名前が「たかの尾井水川」となっており、おそらく下流の田畑のために分水してるのだろうと思われ、鵜川を下流から遡行してみた。

鵜川は滝山へと突き上げる左股はよく沢登りで登られているみたいだが、右股(本流)の方は面白くないのか、記録を見かけない。絵図には左股との分岐手前に岩、分岐後すぐに滝を描いており、絵図の正確性の確認のため、それも探してみた。

分岐手前の大岩。岩、岩場はたくさんあり、絵図のような山形の岩は分からなかった。

分岐後の滝。確かに滝はあったが、高さ2m弱で小さい。絵図のと似ていると言えば、似ている。両岸が狭まっており、ここは沢に浸かりながら、滝を越えるしかない。

堰堤を越えながら、だらだらと本流を遡行し、途中の椿谷との分岐を右に入る。少し登ると、岩を並べて、ベニヤ板で分水量を調整している箇所があった。今もここから分水して、上手く重力を利用してコルを越えて下流側の水量を増やしていると思われる。

鵜川林道は下にパイプで潜らせて、下流の沢に合流する。

ということで、絵図に描かれた沢の分岐は、下流の田畑への分水で、少なくとも1716年からはずっと引き継がれている流れということになる。

鵜川の棚田は、保存(存続)のためか、棚田オーナー会員制にして色々と募っている。棚田がなくなれば、上流の分水も必要なくなり、同様に絵図を不思議に思った人が見に行っても、よく分からなかったで終わってしまう。収穫イベントでは県外ナンバーが多数あり、お米、農業が大事とはみんな分かっているけど、難しい問題。