2024年8月17日土曜日

高山寺の墓道の石碑の話

神護寺、西明寺を巡って、最後に高山寺に向かう途中、清滝川を越える。ここに架かる白雲橋のたもとに、墓道を案内する石碑がある。正面に「鷹司兼平公墓道」、側面に「明治十七年六月」とあるこの石碑は-。
墓道の案内なので、当然その先にはお墓がある。すぐ先で斜面を下って清滝川の左岸を進む。

一段上がると石造物。江戸末期の慧友上人の三重宝塔で、慧友上人は高山寺の文書保存に尽力して、1831年に明恵上人の600年の法要、1844年に墓道案内の主である鷹司兼平公の550年法要、鷹司家墓地整備などもしたとのこと。

もう一段上がると墓所でたくさんの石造物がある。特に大きな三基は、左から高山寺殿(近衛家基公)、昭念院殿(鷹司兼平公)、岡屋殿(近衛兼経公)だそう。

3人とも関白みたいなのに、なぜ墓道の石碑は近衛家墓道、鷹司家墓道ではなくて、鷹司兼平公墓道なのか。慧友上人の鷹司家墓地整備の際に銅版墓誌が2つ出てきたそうで、真ん中から鷹司兼平公の18cm×12cmサイズの墓誌と御骨壷なども一緒に、右端の基からは近衛兼経公の少し小形の16cm×7cmサイズの墓誌とのこと。

近衛兼経公の墓所は宇治市にもあるようなので、明確に墓碑と御骨壷があった鷹司兼平公の墓道としたのかもしれないし、知識が足りないが鷹司家の祖である鷹司兼平公とした方が一般に受けがよかったのか。。

そもそも、なぜ明治17年に墓道の石碑を建てたのか。

江戸期末の慧友上人の後に証成上人という名前が出てくる。明治維新の頃より高山寺にいたが、廃仏毀釈で厳しい時代。さらに明治14年に類焼により山門と三尊院などが焼け、住む住居にも苦労した。

◇火災前である明治14年4月25日までの写真
・山門(仁王門)(明治5年)
・三尊院(明治5年)
・橋と三尊院1
・橋と三尊院2(明治14年4月刊に掲載)
・橋と三尊院?(同じシリーズの三条大橋が明治14~29年の間のため、明治22年以降で石水院かも。ただ橋周辺が火元なのに、上記の写真と同じ橋や樹木が見られることを考えると、明治14年4月の火災前かも。)
*撮影鑑2、矢野家写真資料(京都府立京都学・歴彩館)など

証成上人は法隆寺が宝物を献納することで伽藍を修理した例に倣い、明治17年に鳥獣戯画の献納を東京博物本局へ願い出たこともあったとのこと(府知事不許可)。何とかお金を工面し、明治22年に三尊院跡に石水院を移建して、復興に努めたそうで。

そんな苦しい時期である明治17年に建てられた墓道の石碑。建てられた場所は、高山寺に向かう途中、清滝川に架かる橋のたもと。高山寺の参道はまだ先だけど、当時はこの橋が高山寺の境目的な意味で、火災前は橋越しに三尊院が見えており、後にその場所に石水院を移建して、同じように見える風景は写真/絵葉書の定番の構図のようだ。

◇火災後の写真
・橋と石碑(明治34年頃)
・橋と石碑(明治34年頃)
・橋と石碑と石水院(明治36年)*12頁
・橋と石碑と石水院(明治43年頃)
・橋(時期不明)
・橋(時期不明)
*近畿名勝写真帖(国立国会図書館NDLギャラリー)など

そもそも、石碑を証成上人や高山寺の関係者が建てたかどうかも分からないけど、勝手な推測をすると、復興に取り組む最中に山門、三尊院が焼けて住居にも困り、寺の永続性を疑問視されていた。

厳しい状況の中で近衛家、鷹司家ゆかりの墓所があることを示すことが、対外的に寄付や府知事への陳情で何かプラスになったのかもしれない。または単に梅ヶ畑の村人が誇りに思って建てただけかもしれない。。

かつて高山寺への橋があった所は、今は福ヶ谷林道が通り、墓道の石碑は隅っこに佇むのみ。清滝川にかつて架かっていたであろう橋越しに石水院を見ても、杉の木が大きくなって建物は見えない。

◇参考資料
 ・高山寺経蔵の形成と伝承(2020)
 ・高山寺の金銅墓誌について(1952)