寛喜二年(1230)に寺領を示す目的で作成された神護寺領牓示絵図。伽藍の脇に「巌屋」というのが描かれており、見ようによっては洞穴に建てられた建物のようにも見える。
現在は存在しないこの建物は何なのか。。資料と現地で確認してみた。
現在は存在しないこの建物は何なのか。。資料と現地で確認してみた。
神護寺のある高雄まで行き、清滝川に架かる橋を渡り、階段をたくさん登るとやっと楼門。さらに文覚上人墓まで行くとただの登山で、夏向きではないけど参拝者は少なくて、のんびりできる。拝観料は1000円。
神護寺の伽藍
神護寺のはじまりは、和気清麻呂公が愛宕五坊の一つとして高雄山寺を創建したところから。その後、荒廃したが文覚上人が後白河法皇の勅許を得て、鎌倉期には往年以上の復興を見せた。神護寺絵図はその頃の伽藍の様子を描いたものになるとのこと。
この絵図の伽藍の下側、清滝川側に「巌屋」というのが描かれている。
絵図の時代からは100年以上あとの南北朝時代になるが、神護寺略記(大日本仏教全書119 P68)には「巌屋窟:奉安置不動明王、大師経行霊窟也、」とある。
その後、伽藍は応仁の乱で焼失、または天文十六年(1547)に焼失。元和二年(1623)に楼門、金堂、五大堂、鐘楼を再興。この再興前後のどの時期の伽藍を描いたのかは分からないが、高雄山神□□伽藍之図(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブより)が伝わっており、神護寺領牓示絵図と同じような伽藍が描かれ、左隅に「岩屋」というのがある。
この伽藍之図の描かれた時期は、神護寺展のリストでは室町時代(15世紀)となっている。「巌屋」と「岩屋」が同一の建物とは限らないが、神護寺絵図では洞穴のようなところにある建物だったが、伽藍之図では清滝川の側の崖にある建物のように見える。
この伽藍之図の描かれた時期は、神護寺展のリストでは室町時代(15世紀)となっている。「巌屋」と「岩屋」が同一の建物とは限らないが、神護寺絵図では洞穴のようなところにある建物だったが、伽藍之図では清滝川の側の崖にある建物のように見える。
江戸時代頃の資料からは、猿窟というのを目にするようになる。出典元は、林羅山の高雄山神護寺募縁記(元和8年(1622))のようで、毘沙門堂の南方の窟内にて、伝教大師が猿から山芋と閼伽水をもらう話みたい(羅山林先生文集 巻1 P100)。同じものなのかもしれないが、ここでは絵図と略記にある「巌屋」を探すということにする。
その後の伽藍配置が分かる資料として、明治四年(1871)寺地画図(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブより)がある。ここには「巌屋」「岩屋」に準ずるものは見当たらない。
昭和十年(1935)に金堂、多宝塔が新築され、元々あった金堂は毘沙門堂となり、今に至る。もちろん、「巌屋」「岩屋」という建物は今はない。
調査報告より確認
当然のことながら、神護寺なので境内の調査報告はある。背後の頂上部にかつて高雄城があり、その城跡などを調査したものが下図(京都府教育委員会文化財保護課HP高雄城跡より)。
神護寺絵図のように洞穴に建つ「巌屋」だとすると、図下側に流れる清滝川と等高線が詰まった崖のどこかに洞穴っぽいものがあって-、ということになる。
伽藍之図のように崖際に建つ「岩屋」だとすると、やはり等高線が詰まった崖のどこかに石垣マークがあれば、そこかもしれない。残念ながら、この調査報告からではよく分からないが、該当するものはなさそう。
現地で確認
現地で境内周辺をゴソゴソという訳にもいかないので、清滝川沿いの林道より岩壁を観察。
神護寺の地蔵堂の直下は大岩壁になっており、切り立っている。冬でないと全体像はよく分からないが、建物を建てられるような傾斜ではなかった。
境内の地蔵堂の側にあるかわらけ投げの崖上からも見てみた。かわらけ投げは200円。
結局、よく分からないなーという感じ。
参考資料
◇絵図のコスモロジー 上・下巻 葛川絵図研究会編
◇中世荘園絵図大成 河出書房新社
◇京都府中世城館跡調査報告書 第3冊
◇日本荘園絵図聚影 釈文編二 中世一
◇高山寺・善妙寺寺領牓示絵図
◇平安初期神護寺の伽藍構成とその配置
◇史料京都の歴史14
◇絵図のコスモロジー 上・下巻 葛川絵図研究会編
◇中世荘園絵図大成 河出書房新社
◇京都府中世城館跡調査報告書 第3冊
◇日本荘園絵図聚影 釈文編二 中世一
◇高山寺・善妙寺寺領牓示絵図
◇平安初期神護寺の伽藍構成とその配置
◇史料京都の歴史14