寛喜二年(1230)に寺領を示す目的で作成された神護寺領牓示絵図、高山寺寺領牓示絵図、主殿寮御領小野山与神護寺領堺相論絵図の三幅の絵図。いずれも重要文化財になっている。
その中の高山寺絵図に描かれた「瀧尾離尾」という岩場は、現地の場所を特定されていないので探してみた。
その中の高山寺絵図に描かれた「瀧尾離尾」という岩場は、現地の場所を特定されていないので探してみた。
「瀧尾離尾」は、高山寺絵図の「毗沙門瀧」の南側にあり、朱色で引かれた高山寺の境界線上に位置している。さらに南に行くと「瀧尾山」があって、名前の通りその離れた場所にある尾根ということなのかも。絵図については「絵図のコスモロジー(1988刊)」に詳しく書かれているが、この「瀧尾離尾」「瀧尾山」については場所が分からないとのこと。
とりあえず、今も同じ名称の「高山寺」「菩提瀧」と、呼び名は変わっている「三日坂(今は御経坂)」、あった場所がだいたいわかっている「善妙寺」を地形図に書き足す。
これに旧梅ヶ畑村の境界線(朱点線)を書き足す。旧梅ヶ畑村の村堺(朱点線)が鎌倉時代の高山寺の寺堺をずっと引き継いでいるとは限らないが、少なくとも菩提の滝はずっとその境界となっていて、峰山の北602mピークに至る葦谷-清滝川-菩提川を結んだ線(朱色)もおそらく引き継がれている。
ついでに遺跡として報告がある箇所も入れるとこんな感じになる。遺跡はいずれも平安時代頃とのことで、絵図の時代よりはさらに遡り、仁和寺関連施設かなどは不明。
要は今の毘沙門谷を登って行き、岩場の場所を探して地形図上にマークしていけば、その中のどれかが「瀧尾離尾」ということになる。
毘沙門谷の遡行
まずは毘沙門谷を遡行する。ルートは高山寺側の駐車場に停めて、国道を歩いて行き、毘沙門谷に入り、山中をうろうろする。大きな滝が2つあり、どちらかが「毗沙門瀧」でしょう。
その先、2つ目の滝から地形図の範囲で400mくらいの間に岩場が出てくる。岩場はそこだけ。その後は薄暗い沢が続き、いずれ尾根上に出てしまう。
瀧尾離尾
ということで、2つ目の滝から地形図の範囲で400mくらいの間の岩場なのかもしれないが、示せる根拠もなく分からない。
勝手に推定するとこんな感じになった。旧梅ヶ畑村の村堺(朱点線)が鎌倉時代の高山寺の寺堺を引き継いでいるとは限らないが、今回の岩場はたまたま位置が境と重なった。
現地の状況以外に示せる根拠は何もないし、図書館でこれに関する別の記載が見つけられれば、進展もあるけどそれは難しそう。