長野市の水道の始まりは、大正時代の初めに戸隠に水源池を作って、往生寺浄水場まで導水管を埋設して―ということのようですが、実はそれより40年くらい前の明治の初めに同じ考えで戸隠から水揚げして、善光寺裏の箱清水と芋井の鑪まで水を引いた瑪瑙堰(めのうぜき)というのがあったとのこと。
瑪瑙堰は、箱清水の庄屋の内田與右衛門らが尽力したそうで、箱清水の道路沿いに石碑と湯福神社に水神の石碑、水源池である戸隠の水揚口にも石祠があるとのこと。
この戸隠にある水揚口の石祠の場所が中々分からず―、春先からちょこちょこと探していた。
瑪瑙堰については、箱清水史料集(1975)に絵図が出ており、大まかには現在の戸隠(男鹿沢)水源池よりも上流にあること、途中で大久保の一の鳥居よりも山側を通るように描かれていることから、少なくとも標高1150mよりは高い位置にあると予想された。水揚口の石祠の写真も掲載されており、昭和47年頃に補修されて、案内の看板も設けられたようだった。
忍者村、神告げ温泉、飯綱山西登山口辺りの沢沿いの藪の中にありそう・・ということで、戸隠に立ち寄る度にこの辺りも訪問して、人目を気にしつつ道路から藪の中へ入って水揚口の石祠を探して、やっと確認できた。
人が訪れないと石祠がズレたり、傾いたりするけど、きちんとしていたので、定期的に箱清水の方が入っているのかな。
へーと思ったことがあり、飯綱山、瑪瑙山、怪無山から流れる沢が下流にいくにつれて合流して、単純に戸隠(男鹿沢)の水源池ができていると思っていたが、沢が本流に合流する前に用水用に導水されて、男鹿沢の水源池とは別の方向へ流れていっていた。沢ごとに用水権が決められているのかな。